Signal Red / Prologue

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/01/29


Prorogue 「書類と手」



何故、こんなところにいるのだろう。

着たくもないスーツを身にまとい、座りたくもない椅子に腰を下ろし、見たくもない書類に目を通している自分が、未だに信じられない。
だが、これは現実。そして『何故』と考える瞬間はあっても、思考をそれ以上奧へと潜り込ませるだけの猶予が与えられることはない。
「社長」
いつものように、この言葉が彼——須山葉月を絶妙のタイミングで『現実』につなぎとめる。 広いデスクに音もなく置かれるのは、通常よりも厚みのある特別な紙。
「こちらの契約書にサインをお願いします」
「役員会で承認が下りた案件ですね」
内ポケットから万年筆を取り出し、もう何度書いたかわからない自分の名を書き込んで秘書に渡す。 画数の多い名前をつけた両親を、この時ばかりは恨みたくもなる。 もっとも、他の理由でもこの名前に対しては言いたいことがあるのだが——それは、目の前の秘書に言ってもしょうがないことだ。
「有難うございます、社長」
「・・・いえ」
小さなつぶやきを、秘書は聞き逃さなかったらしい。だが何も言わず、一礼した。

元々は、祖父の兄が興した会社らしい。『らしい』とつくのは、つい最近まで会社経営をしている親族がいることを葉月は知らなかったから。 付け加えるならば、祖父に兄がいたことすら知らずにいた。他人に近いといっても、差し支えないだろう。
彼は一族経営を嫌い、自らも早々に表舞台から引退し、その後は会長として時々は会社に顔を出していたという。 忙しさは半減し、かといって金に困ることはない悠々自適の生活を謳歌していたようだ。
だがその生活は長くは続かず、彼が心臓の発作で倒れたのは昨年の夏。 折しも、葉月の書いた博士論文が認められ、友人達に祝いと称され飲みまくって酔いつぶれた夜中のこと、だった。
『須山葉月さんですね? 今よろしいでしょうか』
「・・・は・・・・・・?」
がんがんと痛む頭を抱えつつ、やっとのことで携帯電話を手にした葉月の耳に入ったのは、懐かしいとさえ思う母国語。
『・・・という状況でして、早急に帰国いただきたいのです。チケットはこちらで手配しますので・・・』

そのセリフを口にした人物は、葉月の目の前にいる。
先々代、つまり葉月の祖父の兄の頃から秘書業務を任されていただけあって、万事そつがない。 決して無理なスケジュールは組まないが、しかし分単位で見事に振り分ける。
ここ数ヶ月、葉月がまがりなりにも社長として存在していられたのは、間違いなく秘書である今橋和之の助力があったから。
そう、誰彼かまわずに断言しても一向に差し支えないのだが、社会的地位というやつが許さないらしい。 ぽっと出てきた30の若造に、社長も何もあったものじゃない、と葉月は思う。

社長。
この部屋に入る誰もが、自分の名を呼ぶことはない。 サインをするときにだけ思い出しているような気がして、ひどく嫌な気分になる。 父親が似たようなことを言っていたように記憶しているが、彼は好意的に受け止めていた。親子ながらこの点は相容れない。
ましてや、二回りほども年の離れた目の前の人物を、秘書として扱わなければならないなんて。
病が回復したという創業者は、人生の終わりを近くに感じ始めた途端、宗旨替えをしたとでもいうのか?  血がほとんどつながっていないも同然の、自分にと?


葉月はちらりと時計を見て、ポケットから煙草を取り出した。火を点け煙を吐き出しながら、顔を上げる。
「今橋さん、この後の予定は」
「特にありません」
今橋は静かに答える。社員の終業時刻まで残り2時間もある。 この椅子に座って以来から、1時間以上もの空白時間は初めてのことだ。
「そう、ですか・・・」
「・・・社長?」
いぶかしげな秘書の口調を遮るように、灰皿にほとんど吸っていない煙草を押しつけ、葉月は立ち上がる。
その表情は社長として、この半年間で身につけた威厳はきれいに消え去っていて、緊張感が取れた彼本来のものだけが残っていた。

「社員用のエレベータは?」
「社員用・・・ですか? 通常通り稼働して・・・」

そこまで言いかけてから上司の意図することがわかり、今橋は笑いを抑え必要最小限の答えを返してきた。
「2階下からつながっております。右手奥の非常階段をお使い下さい。 エレベータ内に主な部署名を表記しております」
「了解。後はよろしく」
「かしこまりました。携帯電話はお持ち下さいますよう」
内ポケットを軽く叩き、葉月はうなずいた。胸につけているネームプレートを外して机上に置き、襟につけた社章は、 あえてそのままにしておく。
「行ってらっしゃいませ」
今橋の言葉を背に受けつつ、葉月は通常の出入り口とは異なる扉を開けた。 秘書室ではなく直接廊下につながっており、しかも非常階段にごく近い扉を。
2階分非常階段を下りてから、再び廊下へと出る。誰にも見られることはなく社員用エレベータへと移動し、適当にボタンを押した。

音もなく降下してゆくエレベータの中で、葉月はその身を壁に預け、ネクタイをほんの少し緩め短く息を吐いた。


   ◇◇◇


葉月の出勤時間は、一般社員よりは遅いものの、他の役員よりは早い。

しかし社長付の運転手が運転する社用車で地下駐車場へと入り、そこから社長専用のエレベータを利用するため、 受付や通用口を通ることはない。
社長室には部長級以上しか入ることはないし、社長以外の役員はひとつ下の階にそれぞれ部屋がある。 また役員用のエレベータは社長用とは別にある。各担当秘書も当然同じ階にデスクを持っている。
つまり葉月の顔を知るものは、部長級以上の人間と今橋、そして運転手だけという、ごくごく限られた人間。


社長就任の際、日本でも五指に入る企業のトップが交代というビッグニュースに、当然のごとくマスコミが殺到した。
社外からの登用、加えて30歳という若さ。この人事は役員会の議を経たものの、当時会長職に就いていた創業者の独断専横だとの批判は多く、 記者会見を望む声が財界のみならず政界からも寄せられた。
しぶしぶ会見を開き、経営者として答えるべき質問には完璧に受け答えをしたが、プライベートに関わる内容は一切ノーコメントを貫いた。 経営者は業績で評価されるべきであり、写真など不要なはず、として撮影も断固拒否した。
元々ほんの少しの間だけであり、すぐに元の生活に戻る、と自分に言い聞かせて不承不承座ることにした椅子。
だからこそ、自分のあずかり知らぬところで勝手に情報が飛び交うのは我慢ならない。そう、葉月はきっぱりと主張したのだった。
それが——まさか今になって役に立つとは。


これまで最上階だけが自分のスペースだったので、自分と同じ年頃の社員達がうろうろしている様は、見ていてほっとする。
日頃は海千山千の年寄り連中を相手にしているから、なおさら。

とある階でエレベータを下りると、そこは経理部が占めるフロアだった。
課ごとに入り口の扉は分かれているものの、中ではつながっている。予想以上に多くの人間がコンピュータに向かい、 あるいは書類を片手に電話、あるいはキャビネットの前などで会話を交わしている。
第一印象として活気があるといえばそれまでだが、しかし葉月は一種の息苦しさを覚えた。
その理由がわからず、けれどうやむやにもしておけず、そのままフロア内に足を踏み入れる。
人の間をすり抜け、その存在が目立たないように、けれどさりげなく周りをチェックしてみるが、これといって目につくものはない。 ごく当たり前の、オフィスの光景といえるだろう。しかし、何かが気になってしょうがない。
そんな時。

「中央の複合機で出力待ちの人! 紙詰まりだから他の機械にしてください!」

数歩先にある機械の前で、女性が声を張り上げた。それを受けて、またかーとフロアのあちこちから反応が返ってくる。
「ジョブは全部クリアしますから! ・・・もう、最近多いなー」
後半の台詞は、明らかに独り言。その場に膝をつき、フロントパネルを開け、慣れた手つきで中に詰まっている紙を取り出していく。


誰一人、手伝おうとはしない。
それどころか、すぐそばにいた葉月が邪魔と言わんばかりに、数人のスタッフが通り過ぎていく。 社章をつけているものの、なじみのない顔だからだろう。
葉月が何となく動けない間にも、機械の中から彼女の手によって次々と紙が取り出されてゆく。 絨毯の上に置かれてゆくそれを、葉月はしょうがなく手に取った。
「・・・あ、有難うございます。後で片づけますから」
彼女はお礼を口にするも、顔を上げようとはしない。一通りチェックをしてから、よし、とつぶやいてパネルを閉じる。 そしてようやく膝を起こした。

「すみませんでした。ここには外のお客さんが滅多に来ないから、つい無精して」
入社して数年、といったところか。まだあどけなさが残る顔立ち。再度丁寧に頭をさげ、にこりと笑顔を見せる。
声はよく通るものの、高すぎず低すぎず。とても心地よく耳に入り、言葉遣いも妙な硬さがない。普段から気をつけているのだろう。
「これで全部?」
「はい」
葉月の手から紙を受け取ると、彼女は首をわずかに傾げる。
「経理・・・の人、じゃないですよね? 何か御用ですか?」
「・・・いや」
「ああ、情報システムの人でしょう。システムが不具合起こしてるって、さっき主任が連絡してましたから」
「それは・・・後で他の者が来ます。私は別件で」
「そうなんですか。失礼しました」
はにかむように、笑う。ネームプレートには『経理部 日下部』の文字。 取りあえず記憶しておこう、と思っていると、ふいに彼女が話し始める。

「どちらの係ですか? 経理はひとつの係でもあちこちに分かれてるから、担当の名前を言ってもらったらご案内できますけど」
「——『分かれてる』? ひとつの係で?」
意味がわからず、思わず聞き返す。
すると、彼女はこくんとうなずいた。後ろで結い上げている髪の後れ毛が、わずかに揺れる。

「ええ。これまで組織の変更があっても模様替えまではしなかったから、空きスペースに追加でデスクを入れたり、 キャビネットを無理矢理置いたりしてるんです」

フロアを見渡して、葉月は納得した。先ほど感じた妙な息苦しさは、このせいだ、と。
一瞥しただけでは、一応整然とデスクが並んでいるように見える。けれど、人の流れが非効率的なのだ。 デスクとキャビネットの位置関係が、明らかにおかしい。この複合機の位置も、動線を無視してる。

「だから、ここに配属になった時から配置を変えた方がいいのでは、ってずっと係長にお話してるんですけど、なかなか受け入れてもらえなくて。 人の流れもおかしいし、この複合機だって、位置がここだから他に比べて稼働率がすごく高くて・・・故障しやすくて当然なんです。 これを買い換えるって話も出てるらしいんですが、模様替えの方が効率いいのにって思うんです。・・・って、すみません、長々と・・・・・・」

彼女の胸の前にある書類が、その手に力が入ることでくしゃりと皺が入る。
日下部さん、と少し遠くから女性の声がする。
「はい、今行きます。——すみません」
「・・・日下部さん」
一礼してその場を去ろうとした彼女の名を、葉月は思わず口にして呼び止めた。
「はい?」
「さっきの模様替えの話、日下部さん個人の考えでいいので簡単な図面を作ってもらえますか?」
「え? でも」
「上に話を通してみます。あなたの希望通りにいくかは確約できませんが」
「・・・いいんですか? 確かに、模様替えする時は情報システム部の応援が絶対に必要ですけど・・・」
明らかに困惑した表情を、彼女は見せる。こちらの意図を正確に読み取っているのだとわかり、葉月はうなずいた。
「そういうこと。1週間くらいでまとめてもらえれば・・・っと」
胸ポケットで振動する、携帯電話。すぐに1歩下がった彼女に会釈して取り出すと、2コールで切れてしまった。 今橋の携帯番号が発信元ということは、『戻ってこい』という合図だろう。

「お互い『戻ってこい』、ですね?」
くすくすと笑う相手に、葉月は苦笑しつつうなずいた。
「じゃあお言葉に甘えて、1週間以内に図面を作っておきます。データの方がいいですよね?  社内メールで・・・あ、えーと・・・」
口ごもる理由はわかっていたけれど、葉月はそれを無視した。
「ペーパーで構いません。いつとは約束できませんが、なるべく早くに取りに来ます」
「・・・はい、わかりました」
「それじゃ」

了承の言質を取ってから足早に社長専用フロアへ戻ると、いつも出迎えるはずの今橋が椅子に腰を下ろしたまま携帯電話を手にしていた。 会話は終わる間際らしく相づちを打ったり、「よろしくお願いします」などを繰り返している。だがその顔色はいつになく悪く、口調も重い。
「どうかしましたか、今橋さん」
何となくその場を離れることができず、電話が終わったのを見計らって問いかけると、秘書は無理に作ったとわかる笑顔でかぶりを左右に振る。
「電話を途中で切ってしまい、申し訳ありませんでした。すぐにもう一度かけるつもりでいたのですが、別の電話がかかってきまして」
「何か」
なおも問いかけると、今橋はしばらく黙っていたが、意を決したのか深々と頭を下げた。

「3日・・・いえ、明日1日で結構です。休暇を頂いてもよろしいでしょうか」
「今・・・」
「どうしても、妻についていてやりたいんです。社長に多大なご迷惑をかけるとわかっておりますが、どうしても・・・!」
「今橋さん」
そのまま頭を上げようとしない今橋を何とか落ち着かせ、社長室のソファに腰を下ろさせる。テーブル越しに目線の高さを同じにし、彼が話し始めるまで辛抱強く待った。

「実は・・・」

彼の妻が自動車事故に遭い重体であるという連絡が、つい先ほど警察から入ったという。
夫婦の間には子供がなく、親戚も遠く離れて暮らしている。せめて意識が戻るまではそばについていてやりたい——そう、彼はつぶやくように言った。 初めて見る、今橋和之の苦しそうな表情。
「よく、わかりました」
なるべく淡々と、葉月は応じた。
正直、今橋の不在は自分にとって痛い。いや、痛いなんてレベルではないだろう。けれども。
「3日と言わず、しばらくついていてあげてください。これは社長命令です」
しかし、と反論しようとする今橋を、手で制する。
「聞こえませんでしたか? これは命令です。 あなたは私の部下のはずですし、この命令はパワーハラスメントにはならないでしょう」
「社長・・・」
「私のことなら心配なく——といっても信用ならないでしょうが」
秘書がいなくても数日間は何とかなるから、と続けると、今橋が背筋をぴんと伸ばした。
「とんでもありません。代わりの秘書をすぐに手配します」
「それは有難いですが、他の役員付きの秘書は勘弁してください。やりにくいことこの上ない」
「お気持ちはわかりますが・・・そうなりますと、なかなか難しいです。別の課から応援を呼ぶとしても・・・」

秘書と名のつく社員は、全員秘書課に所属している。 束ねているのは課長である今橋であり、それ以外の秘書は全て、葉月以外の役員付という扱いにしている。
葉月と役員連中は必ずしも蜜月状態ではない為、秘書自身に何ら問題がないとしても、トラブルの種になる可能性は十二分にある。 それだけは、避けたかった。
しかし最後に今橋が口にした言葉に、葉月は身を乗り出す。

「——今橋さん」
「お心当たりでも?」
打てば響くように返される言葉。このレスポンスの早さは、とても心地良い。
「経理部長を呼んでください。電話でも構わない。・・・いや、電話の方が良いです」
「お待ちください」

社長室にある電話の子機を操作し、相手が出るのを待って今橋は受話器を渡そうとする。 それを制してボタンを押し、会話が秘書にも聞こえるようにしてから、葉月は口を開いた。

「忙しいところすみません、須山です」
『いえ。どんなご用件でしょうか、社長』
「その場に、他の社員は」
誰もいない、と返ってきた言葉に、葉月は今から口にしようとしている内容を再考し、そして決断した。
「単刀直入に言います。また他言無用です」
『——はい』

社長から電話が入ることなど滅多にないので、いささか緊張した様子が電話越しに伝わってくる。
経理部長の清水は今橋と同期入社。 部長と課長の差は歴然とあるものの、ふたりの間には今でも友情が存在していると聞いている。 ここ数ヶ月接してきて、葉月にとっても清水の人柄は打算めいたところが薄く、好感を持っていた。 これは偶然とはいえ、何と幸運なことか。


「経理部に日下部という女性社員がいますね? まだ入社して数年のようですが」
『日下部凛ですね。おっしゃるとおり、経理部経理課に所属しております。日下部が何か』
今橋が心得たように、社員名簿を棚から取り出し経理部のページを開いた。 写真を確認して、間違いない、と葉月は確信した。彼女だ。
テーブル越しにいる今橋に視線を移すと、真意を探るかのような、いつになく硬い表情が見える。
一度だけうなずいてから、葉月は決して感情をこめないよう細心の注意を払いながら、と続きを告げた。


「彼女を数日間、預からせてください。私の——秘書として」


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