Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/01/30


1st 01. 「視線とレンズ」[1]



東堂コーポレーション本社の朝は、早い。
一般社員の始業は8時20分であり、正面のエントランスが開く7時50分ともなると、かなりの人数が本社ビルへと入ってゆく。 日本有数の大企業で、その売り上げの割に社員数が少ないと巷では言われているが、それでも人の波は途切れることがない。
創業時は小売が主だったが、流通・運輸、電気機器・・・と業種の幅を広げ、グループ企業を含めると、現在はかなりの分野に何らかの形で関わっている。

「おはようございます」

日下部凛は、その中にいるひとり。
2月の朝は極寒で、加えて寒がりの彼女は分厚いコートを羽織りマフラー・手袋と完全武装で、顔なじみの警備員に朝の挨拶をする。
160センチそこそこの身長は決して目立つものではないが、曰く「ぼんやりと歩いていて危なっかしい」らしく、入社後研修期間中に顔を覚えられてしまった。
「おはよ。今日は雪が降って寒いなあ」
「はい。早く春が来て欲しいですよー」
「そう言うなよ。花粉症持ちにはつらい季節なんだって」
「あ、そっか。それもそうだ」

彼女が所属するのは経理部。
入社後、社員の半数程度が配属される営業部を経て2年前の4月に異動した。 2度目の年度末が近づきつつあり、始業前からぴりぴりとしたムードが漂っている。 最初こそ営業部とは違った独特の雰囲気に驚いたものの、この緊張感が彼女には逆に心地良い。
毎日、各部署から途切れることなく送られてくるデータをさばき、社内外問わずに鳴る電話を取っていると、 終業時刻が近づく頃はくたくたに疲れてしまう。それでも、今の仕事は好きだった。


「なーに、ずいぶん機嫌いいじゃない? 何かいいことあった?」

ロッカールームで武装を解き、席に着く。その後はいつもと同様、退社後に送られてきた経理システムのデータをチェックする。 だいたい月曜日が一番データが多く、火曜日は底、水曜からじわじわと増え始める。 2月末ともなると、その増減が顕著だ。けれど、予想よりも若干少ないので内心ほっとしていると、凛の背中ごしに青柳まゆみが声をかけてきた。

まゆみは、凛と同じ係に所属する主任。性格はおっとりとしていて細かいことにこだわらないわりに、仕事に関してはどんなささいなミスも見逃さない。 顔立ちは整っている方だというのに、本人は全く無頓着で無類の酒好き。
物怖じせず、はきはきと物事を言う凛を妙に気に入ってくれて、週に1度位のペースで夕食を一緒に食べに行く。 同期入社の数人よりも仲が良い、と周りも言うし凛自身もそう思っていた。

「・・・いいこと、になるのかな。まだ何ともわかんないんですけど。どうぞ」
「ありがと」
給湯室へと場所を移し、凛が数分前にセットしておいた出来たてのコーヒーをプラスチックのカップに注ぎ、まゆみに渡す。 残りのコーヒーは保温ポットへ。週替わりで当番を回しているのだが、今週は凛とまゆみが当たっていた。 当番といっても、日に数回コーヒーを入れることと、退社時の後片付け程度。それ以外はセルフサービスだから、楽なものだ。
始業10分前のフロアは、そこかしこで挨拶が飛び交っている。 ここ1週間、経理部の3割方が風邪やインフルエンザに罹ってしまっていたのだが、皆だいぶ快復してきたようだ。
凛自身は、1月に3日間寝込む風邪を引いた。その為、諸悪の根源は日下部だ、と皆笑いながら言ってくる。いちいち反論するのも疲れるほど。

猫舌な凛がカップを持ったままなのをちらりと確認し、風邪ひとつ引かない健康体のまゆみは、一口飲んでからにやりと笑った。
「さては昨日の男? やたら背の高い」
「え・・・・・・え、ええ!?」
「ビンゴかぁ」
「ち、違・・・わ、ないけど、そうじゃなくてっ!」
「違うって何がー?」
頬だけじゃなく耳までも真っ赤にして意味の成さない言葉を口にする後輩に対し、 今の会話を聞いたら何人の男が泣くだろう、と彼女は指折り数えようとして、もう一度聞こえてきた言葉に、途中でやめた。

「そうじゃなくて・・・模様替えの話が、実現するかもしれないんです」

過去に1度、夕食の席でおそるおそる凛がまゆみに話したことがある。経理部では新人の自分が言うべきではないかも知れないけれど、と。 凛は具体的なレイアウトまで考えていたし、後日実際に見せてもらった時は内心舌を巻いた。 机やキャビネット、テーブルにOA機器のサイズをきちんと測って作成されており、また数パターン考えたというのだから恐れ入る。
このまますんなりと行くとは思えないけれど、上に相談してみる価値はある、と確信したほどだ。
しかし、実現には至らなかった。ちょうどその頃、直属の係長と部長が異動となってしまい、何となくうやむやになってしまったからだ。 どこまで話が届いていたかも、今となってはわからない。

「ああ、前に話してくれたあれ?」
「はい」
やっと飲める温度になったのか、彼女は湯気がすっかり消えてしまったコーヒーをすする。
「あの人、情シスの人らしくて。あの時、ちょうど複合機が調子悪くなったでしょう?  それで、わたしちょっと愚痴っちゃったんです、机の配置が変われば仕事がしやすいのにって。そしたら、図面を見せて欲しいって」
「情シスで検討するって? そう言ったの?」
「はい」
凛がこくんとうなずくと、まゆみは飲み終えたカップを置いてしばし考え込んでしまった。 その真剣な表情に、自分は言ってはいけないことを口にしたのかと思い、気分が一気に沈んでゆく。
「・・・あの・・・?」
「メールで送ったの?」
「いえ。1週間以内に取りに来るって言われました。ああそういえば、名前聞くの忘れてた。情シスの人、ネームプレート付けてくれないから」
「その人、情報システム部の人間なのね? 間違いないんだよね?」
「間違いないです。昨日、まゆみさんが経理システムの不具合報告してくれたでしょう?  その人は、それとは別の用事で来たって言ってましたけど」
いつになく質問攻めにするまゆみに、凛は首をかしげながらも律儀に答える。

質問は、それきりだった。無言のまま時折コーヒーを口に運び、空いている方の指をこめかみにあてては、軽く眉根を寄せる。 はらはらとした思いを抱えつつ動けずにいると、ふいに頭上から声が下りてきた。

「日下部さん」

びくり、と凛は肩をすくませる。
頭上からというより、ほとんど耳元から聞こえた自分の名前。 ゆっくりと振り向くと、まさに今、まゆみと話していた渦中の人物が、そこにいた。


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