Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/01/30


1st 01. 「視線とレンズ」[2]



昨日と同様、彼はネームプレートを付けていない。
面と向かって顧客対応をしない部署の人間には、ままあることだ。 IDカードさえ持っていればビルへの入退館の際も困らないから、と、システム関係の社員は主張しているようだ。
「お、おはようございます」
「おはよう」
凛が軽く頭を下げるとにこりと微笑みを返し、その視線は1歩奥にいるまゆみへと注がれる。

「おはようございます。日下部に何か御用でしょうか?」

口調はのんびりで、表情は柔らかい。しかし、その目は笑ってはいない。
彼女は滅多に、本人がいる前で凛のことを名字で呼び捨てにすることはない。 その場に上司や顧客、業者などがいる場合など、限られた時だけ。
しかし彼は、他の部署の人間。しかもその外見から、まゆみと同等もしくはまゆみの方が先輩格にあたるだろう。 それなのに何故、と凛が考え込むのをよそに、ふたりの間では文字通り『硬い』会話が交わされていた。


「彼女にお願いしたいことがあります。込み入った話なので、彼女をしばらくお借りしてもよろしいですか?」
「それは困ります。年度末が近いですし、ただでさえ経理部は人員不足なんです。この状況で日下部を取られたら、立ちゆかなくなります」
「それはお互い様でしょう」
「・・・どうでしょうか。そもそも、何故日下部ですか? 経理部内ならともかく、よその部署のお役に立てるとは思えませんが」
「それはあなたの主観ですね。こちらはこちらの事情があります」

事実とはいえ、まゆみの言葉にはぐさりと刺される。 と同時に、昨日この人と話していた内容とは明らかに違う、とおぼろげながら凛にも理解できる。 これは単に、模様替えの話ではない。もっと別の・・・一体何の?

「こちら、とは情報システム関係ですか?」
「それも含めて、全般的に」
何故そこまで情報システム部にこだわるのか、まゆみはその部分をやたらと強調してなおも問いかける。 だが、相手は困ったような表情を浮かべつつも、笑みを崩さない。のらりくらりと、逃げているかのよう。
「どうしても、とおっしゃるのでしたら、まず部長の了承を頂かないことには・・・」
「承諾は得ています」
「な・・・・・・」
「え!?」
きっぱりと言われ、目を丸くするまゆみの隣で凛は思わず声を上げた。
「昨日のうちに、経理部長に承諾頂いています。確かめてもらって結構です」
「・・・誰からの、いえ何処からの依頼ですか!?」
いきなりの急展開についていけない凛をかばうように、まゆみがそれまで隠していた感情を表に出した。

もともと給湯室には、扉がない。
これまでのやり取りはともかく、たった今まゆみが発した言葉はフロアに筒抜けだろう。 ざわざわとした空気が一気にぴん、と張り詰めたのがわかる。すると。

「——参ったな」
ため息と共に、目の前の男性は前髪をやや雑にかき上げた。そのせいでセットが崩れ、やや幼くも見える。 それまでのクールな表情も、半分以上はがれ落ちてしまっている。
「ここであなたと議論するつもりはないんですよ、青柳主任」
「あら、初めて意見が合いましたね。私もです」
「あの、ちょっと待ってください」
このまま冷戦に突入しそうな気配の中、凛は間に割って入った。

「質問しても良いですか」

先ほどまでとは違い、名の通り凛とした声。
彼とは身長差がかなりあるので、必然的に見下ろされる格好になる。 初めのほうこそ彼は微笑みを見せていたが、やがて真顔になった。
「・・・もちろんです。あなたの質問にはきちんと答えます。でもその前に、しなければならないことがいくつかありますから」
「いくつか?」
「そうです。——青柳主任」
「・・・私に何か?」
すっかり冷めてしまったコーヒーの残りを飲みながら、まゆみは視線は動かさずに反応を返す。
「あなたにも一緒に来て頂きたい」
「何故ですか? 部長の許可を得ておられるのなら、私が口出しできることは何もありません。後は日下部が判断するだけです」
まゆみの口調は淡々としているものの、その複雑な心の内は凛にきちんと届いた。
組織の中にいる以上、線を引かなければならないことはある。それは、彼女の口癖でもあったから。
しかし、彼の反応は予想外だった。
「日下部さんが判断を下すのに、あなたの協力が必要だと言ったら?」
「協力? どういう、意味ですか」
「それも含めて、答えるという意味です。部長の許可はもちろん取ってあります」


この人の言葉に嘘はない、と思ってしまうのは、昨日の一件が美化されすぎているからなのだろうか。
まゆみと交わされるやり取りを反芻すればするほど、何もかもが奇妙に思えてくる。そして、何もかもが論理的にも思えてしまう。
いつのまにか・・・そう『いつのまにか』、この人のペースに乗せられてしまっている、そう凛は思った。
一見、きちんと筋を通しているように見えて、結局彼は何も手の内を明かしていない。名前すら、名乗ろうとしない。 向こうはこちらのことを何でもわかっている様子だというのに。

「——承知しました。凛、行こう」
仕方がないと言わんばかりに、飲み終えたカップをゴミ箱に投げ入れる。慌ててそれに倣う凛を見届けてから、彼はくるりと踵を返す。
「どこへ行くんですか」
そのまま経理部のフロアを迷いなく歩いていく彼の隣で、凛は尋ねる。 まゆみは2歩以上後ろから無言のままついてくる。他の社員は通常業務にとっくに戻っており、彼ら3人に特に関心を寄せることもない。
「部屋へ」
「部屋・・・? ・・・あ、ちょっと待ってください」
「日下部さん」
自分の席の近くを通りかかり、そこへ戻ろうとした凛の手首は、ぐっと掴まれた。振りほどこうとしても、びくともしない。
「時間がないんです」
「でも、配置図が」
「もう作ったのか・・・」
昨日の今日なのに、と少なからず驚いているようだった。
ほんのすこしの間に、相手の口調はかなり変化している。砕けた、というべきか。それとも——
「これでしょ、凛」
すっと脇から差し出された書類は、凛の目の前を通り越して一段高い位置へと移動した。 クリアファイルに収められたそれを一瞥して、脇へと抱え込む。
「これは預かっておきます。お疲れさまでした」
「・・・はい」
漂う緊張感が、普段なら言ってしまう『よろしくお願いします』の言葉を押しとどめさせる。

掴まれたままの手首が、やけに熱い。
けれど何となく、『放してほしい』と言うタイミングを逸したまま、3人はエレベータへと乗り込んだ。


情報システム部は、経理部より上の階。けれど予想に反して、押されたボタンは地下2階。
「やはり——情報システム部じゃないんですね」
まゆみの冷ややかな視線にも、彼は全く動じない。
「私は、情報システム部の人間ですよ」
「嘘はやめてください。あの部の係長以下全員を私は知っています。あなたはその中にいません。 それとも、課長でいらっしゃるのですか?」
ああ成程、と感心したような声が箱の中で響く。
「あなたの記憶力には敬意を表しますが、対象が狭すぎますね。もっと広い視野で物事を捉える癖を付けた方が良い」
「・・・嫌みですか」
「いえ言葉通りです。あなたは柔軟な考えの持ち主で、立場もよくわきまえている。 けれど一度敵と見なした相手に対して、簡単にはスタンスを曲げない。考えを固定させるまでの時間が、短すぎます。 そしてそれを、表に出しすぎる。まあそれは、私が社内の人間だからでしょうが」
「・・・・・・っ」
さらさらと、よどみなく。まるで芝居の台詞を読むかのように、抑揚のない声が耳に入ってくる。
かなり痛いところを突かれたようで、まゆみは黙り込んでしまった。反論する気はないらしい。
けれど凛には、我慢ならなかった。さっきはふりほどけなかった手を、いとも簡単に引きはがす。

「失礼なこと言わないでください! まゆみさんは、そんな人じゃありません。いくらあなたが・・・!」
「凛、いいから・・・」
まくしたてる凛、それを止めようとするまゆみ。ふたりを興味深そうに眺め、けれど彼はすぐに背を向ける。
「でしょうね」
「え・・・」
あっさりとうなずかれた。怒りにひるんだ、というわけではなくそれが当然、とでも言わんばかりに。


到着の音がして、扉が開く。
地下2階は、駐車場。来客用と役員用の車両しか置けない階になっているので、一般の社員は滅多にこのフロアに足を踏み入れることはない。
どこへ行くのだろう、という疑問は喉の奥にしまいこんで、取りあえず大きな背中についていく。

「先ほどの話ですが、裏返せば自分の考えをはっきりと持っているということです。 ただ、そのバランスが彼女の場合は時々崩れる。まっすぐ見ていたはずのものが、いつのまにかレンズ越しに見てしまうことが、ままある。 ——でも、あなたはちょっと違うようですね、日下部さん」
「は?」
「私が誰なのか、そろそろ検討がついているんじゃないですか?」


ふいに彼は振り向き、その視線はまっすぐに凛へと向かう。
自然と足が止まり、凛も負けじと見上げた。

情報システム部の社員ではないはずなのに、それを認めようとはしない。
昨日の今日で部長に話を通すことができるだけの力を持っていて、しかもとても若い。どう見ても、30そこそこだ。
けれど、誰も知らないようだった。経理部ではないことを抜きにしても、同世代の人間が必ずいるはずのなのに。

いくつもの可能性を浮かべては、ひとつひとつ消してゆく。
残った答えは————ただ、ひとつ。



「何かわたしに御用でしょうか、——『須山葉月』社長」

ちょうどその時、社長室直通のエレベータ前に到着した。

「合格、です」

息をのむまゆみを横目に、東堂グループを束ねる若き総帥、須山葉月は満足そうにうなずいた。


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