Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/01/30


1st 02. 「標的と獲物」



東堂コーポレーション社長が交代したのは、昨年の初秋。

その際、かなりの騒動が持ち上がったというのは、いくら社内の情報に疎い者でも知っている。 しかし、それがほとんど外に影響を及ぼさなかったのは、新社長がすぐさま役員連中を抑え込んだから、とも。

『須山葉月』。新しく社長の座についたその人は、けれど大半の一般社員には謎の存在だった。 あらゆる社外向けあるいは社内文書でその名を目にすることはあっても、ごく限られた人間しか姿を見ることはない。 社長クラス、しかも東堂グループを束ねる程の人物となると、新聞や雑誌がこぞって特集を組むほどなのに、写真などの露出が一切ない。 顧客向けに作られているウェブサイトにすら同様だった為、『須山葉月なる人物は現実に存在しないのでは』という憶測すら流れた。

それが————まさか、目の前にいるこの人だったなんて。
自分が口に出して言ったこととはいえ、頭のどこかでそんなはずは、とも思っていた。

100%の確信があったわけではない。今だって、本当に彼が社長なのだろうかと、まだ疑っている自分がいる。
彼が否定したことしなかったこと、ここ数ヶ月は社内にほとんど異動がなかったこと、 情報システム部は少なくとも2年は同じ人が課長として在籍していること、そして、誰も彼と顔見知りの人がいないという事実。
それらを慎重にひとつずつあてはめ、かつ消去法を繰り返した最後に残ったカードが、『社長』だった。ただ、それだけ。

社長ならば、どの部署にも所属していると言っても差し支えない。
社長ならば、社員ひとりの処遇くらい思いのまま。部長に対して命令するくらい、わけもない。それが平社員なら、尚更。
何ら、不思議に思うことはない。種明かしをしてみれば至極単純。

そこまで考えが至った時点で、しかし急に不安になった。
一体何故、自分が呼ばれるのだろう。何か致命的なミスをしてしまったのだろうか? まゆみにまで、飛び火してしまうほどの。
でも昨日はそんなそぶりすら見せなかったし、今にして思えばお忍びで社内を見回って愉しんでいるように思えた。 そこへたまたま自分が居合わせた、そんな感じで。けれど今日は、明らかに余裕がないように取れる。
彼自身も言ってたではないか、『時間がない』と。
でもどうしてだろう?
時間を気にするのは、社長じゃなくてむしろ——。
「・・・・・・」
ふと、ひとつの可能性を思いついてしまった。
そんな、いやまさか。あるわけがない。絶対違う。考えられない。 ありとあらゆる否定の言葉で上書きしようとしても、なかなか消えてくれない。


「——社長」
まもなく最上階に着く、その状況でまゆみが振り向いた。彼女が立つ位置は、操作パネルの前。 中央やや奥寄りにいる葉月に、斜め前方から相対する格好になる。凛は、葉月に促されるままに彼の真横近くにいた。
「何か? 青柳主任」
「あなたは本当に、須山社長ご自身でいらっしゃるのですね」
「何なら、免許証でも見せましょうか。部屋に戻ればパスポートもありますが?」
内ポケットに手を差し込もうとした葉月に、いえ、とまゆみは控えめに言葉で制してから、
「・・・大変失礼いたしました」
ゆったりとした動作で、彼女は一礼する。凛が息をのむほどの、洗練された仕草。そして再び姿勢を戻した時、扉が開いた。


   ◇◇◇


「・・・というわけで、今橋さんが戻るまでの数日間、日下部さんに私の秘書としてサポートをお願いしたいのです」

社長室内にある、革張りのソファ。社長が腰を下ろすのを見届けてから、凛はまゆみと共に正面に座り、初めてきちんと葉月と顔を会わせた。

彼の背は文句なしに高かった。同年代の社員に比べ、髪型は若干長め。真っ黒ではなく、光の加減によっては濃い藍にも見える。
やや中性的にも見える顔立ちは、日にあまり焼けていないからだろうか。だが決して華奢ではないのはスーツの着こなしを見ればわかる。 野球よりもバスケット、水泳よりも剣道といった屋内スポーツを好んでいる。そんな印象を凛は受けた。
けれど、白い炎の方が赤いそれよりも温度は高いというではないか。

ひととおりの状況説明の後に続けられたのは、凛に対する依頼というより『命令』。 それは、凛の予想通りだった。それでも、質問が口をついて出てくる。
「・・・何故・・・」
「はい?」
「何故、青柳主任ではないのですか。秘書業務なら、絶対に・・・」
「『秘書の経験を持っている彼女の方が適任です』。経理部長も同じ事を言いました。今橋課長もね」

まゆみは数年前、現在は引退したとある役員の秘書をしていた。 どんな時でも慌てるそぶりすら見せず、万事にそつがない仕事ぶりは高い評価を得ていたものの、 彼女は担当役員の引退と共に他の部署への異動願を出した。今橋が説得したものの考えはゆるがず、 仕方なく手放した——そう、葉月は昨日聞かされていた。

「でしたら」
「あなたはどう思いますか」
凛から視線をそらした葉月に話を振られたまゆみは、彼女本来のおっとりとした口調で答えた。

「・・・経理部としては、日下部よりも私が残った方が効率が良いはずです。 それに、数日とはいえ秘書課内の人間を指名されなかったのは、僭越ですが賢明なご判断かと考えます。 彼女は秘書経験は皆無ですが、気が良く回りますし口も堅いです。 また先ほどのやり取りを拝見する限り、私よりも須山社長のペースに上手に合わせることができると思います。 いずれにしても、私は彼女のサポートに回りますが」

「まゆみさん・・・!」
「有難う。そう言ってもらえると心強いです」
鷹揚にうなずく葉月にうなずき返して、まゆみは凛の肩に手を置いた。
「大丈夫。私が前に作ったマニュアルがあるし、今橋課長が多分きっちり書類を残されてるはずだから」
「自信ないです。さっきエレベータの中で、わたし社長の横に立ってたんですよ? こんな秘書、どこにもいません」
「確かにね。でもそれだけ、パニック状態だったんだろう? 何かミスをしたんだろうか、クビになるんじゃないか、とかね」
くすりと笑いを含んだ声に、凛はバツの悪そうな表情を葉月に見せる。
当然でしょう、というまゆみの援護に、葉月は素直にすまないと謝った。


「きちんと前もって話さなくて悪かったと思ってる。でもどうしても、君と青柳さんを直接連れてきたかった。部長室を使うわけにもいかないし」
「あら。給湯室で話されたら面白い展開になっていたと思いますけど?」
敵意むきだしだった数分前までの勢いはどこへやら、まゆみは実に楽しそうにくつくつと笑う。
「社長の作戦勝ち、ですね。昨日凛と会ったのも作戦でしょう」
「まさか」
「・・・まあそれは置いておくとしまして、そろそろ定例会議のお時間では? 昔と変わっていなければ、ですが」
「その通り。そういう習慣はすぐには変えられないようで」
時計は、まもなく10時30分を示そうとしていた。
「定例会議? 役員の皆さんと・・・ですか」
「月に一度のね。場所は第1会議室を使うことになっているから、ここへ来るわけではないよ」
そう言って、葉月は立ち上がる。凛も慌てて腰を浮かせ、背筋をしゃんと伸ばした。

「日下部凛さん」

耳に心地よく響く声。次いで差し出された右手に驚いて、これから数日間近くにいることになるその人を、見上げた。
ああ、この声。背よりも顔よりも、この声が一番記憶に残っていた。自分の名前が特別なものに思えてくるような、そんな声だ。
「長くても1週間程度ですが、よろしく。須山葉月です」
「こちらこそよろしくお願いいたします、社長。精一杯がんばります」
自分の手よりも大きく、けれどしなやかな手。相手が女性だからか、力強く握り返されることはなく、儀式めいていた。


   ◇◇◇


5分後。
凛は早くも自分の取った行動を後悔し始めていた。
いくら数日とはいえ、とても務まりそうにない。絶対に、無理だ。

「良かったねー凛。来週末まで社長の出張は2回しかないし、外からのお客様も3件だけ。 来週金曜日はパーティがあるけど、それまでに課長が戻られるでしょ。奥さんの意識も戻ったそうだし。珍しいな、これだけ暇なのも。・・・聞いてる?」
「はい・・・一応は」
「うわ、さすが課長。お客様の飲み物の好みまでちゃんとメモ取ってくださってる。これなら心配要らないよ」

まゆみの想像通り、社長秘書室には現在休暇中の今橋秘書課長がまとめた引継ぎ書類が、『きちんと』置かれていた。
とても急場しのぎの作成とは思えない。 社長が困らないよう、お客様に対し恥ずかしくないよう、凛が戸惑わなくてすむようにと、これでもかといわんばかりに詳しくまとめられている。

「大丈夫かなあ・・・不安です」
「まだ言ってる。私が太鼓判を押してるんだから、信じなさい」
「だって、ほとんど初めて顔を合わせた人の秘書ですよ?  最初は穏やかそうな人だなって思ってたけど、実際穏やかな人に見えますけど、まゆみさんに面と向かってあんなこと言う人ですし」
「あんなこと、って・・・・・・ああ、あれね。視野が狭いとか何とか」
隣の給湯室へとまゆみは足を向け、「さすが社長用」とつぶやきながら、次々と扉を開けては閉め、茶器などの位置を凛に丁寧に教えてゆく。
「普通、そんなこと言いませんよ。よっぽど親しい人ならともかく」
「でも当たってるのよね。前にも一度、同じ事言った人がいたし。・・・だから、秘書はもういいかなって思ったの。向いてないんだって」
「・・・向いてない? まゆみさんが?」

茶葉の量、それに対するお湯の量。コーヒー豆の種類に、コーヒーカップの取っ手をどちらに向けるべきか、スプーンの位置は手前か奥か。 菓子付きで飲み物を出す場合、人に向かってどちらに配置するのが正しいのか、等々。
よどみない先輩秘書の説明に必死にメモを取りながらも、凛は思わず聞き返してしまう。

「うん。・・・あ、お茶を入れる時はこの湯冷ましを使うこと。もしくは、温度を低めに設定してね。急須は揺らさずにじっくり蒸らすの。・・・いい?」
「はい」
再びペンを走らせる凛を見守りながら、まゆみはつぶやくように言った。
「凛みたいなタイプの方が、うまくやれると思うよ。本当にね」
その声は、凛の耳には届かなかった。


「——まあ、こんなところかな」

それから、数十分。いい加減手も疲れてきたところで、ようやくまゆみは説明を終えた。
秘書としての訓練を受けていない凛にとっては、拷問に近かった。入社時に接遇研修を受けたことがあるとはいっても、その時の比じゃない。 社長秘書ともなれば、要求されるレベルは果てしなく高いし、失敗は許されない。 葉月は「数日だから」と言ってはいたが、その言葉を鵜呑みにできる人間などいないだろう。

この会社に難関を突破して入社の内定がもらえた時は、とにかく嬉しかった。 日本有数のグローバル企業のひとつに数えられる、東堂グループ。けれどその規模の大きさが、まさか数年後の自分を苦しめる要因になろうとは。
「うー・・・覚えることいっぱいありすぎ・・・経理システムの方が、よっぽど簡単に思えます」
「そうかもね。人間相手は、結構厄介だから」
「・・・役員さんとか来たらどうしよう・・・絶対失敗しそうです」
「そう言う時は、アクション起こす前に一呼吸おくこと。それと・・・」
「? それと?」
ふいに、まゆみが真顔になった。そしてゆっくりと、微笑みへと変わる。


「——やめとく」
「え、何でですか」
「変に知識を入れちゃうと、失敗の元だし」
「・・・それは・・・否定できませんけど」
「要は、いつもどおりで良いってこと」
「何か、はぐらかされてるみたい」
「違うわよ」
「もう・・・」
むくれる後輩の頭を、ぽんっと軽く叩く。そしてごく小さくつぶやいた。
「標的にされる獲物は、少ない方がいいしね」
「・・・は?」
「いいのこっちの話。じゃ、私は戻るね。昼休みの時にでも凛の荷物持ってくるから」
「あ、有難うございます!」

きっと、凛は90度近く頭を下げているに違いない。それがわかっていたけれど、まゆみは後ろを振り返りはしなかった。
それにしても、と思う。いきなりの急展開にまだ頭がついていかない。自分がそうなのだから、凛はパニック状態だろう。 いくら偶然が重なったとはいえ、今橋が急遽休暇を申請することになったその直前に凛と社長が顔を合わせ、会話を交わし、 少なくとも社長は凛に興味を持った。だから、かなり強引な手を使ってでも、彼女を期間限定の秘書としてそばにおくことに決めたのだ。
一瞬にして有能な部下を取り上げられたことは、仕事をこなす上ではかなりの痛手だ。 しかし今の自分は、まるで子供のようにわくわくした気分を抱えている。
周囲の状況には大いに不安はあるけれど、それにつぶされるような彼女ではないし、ましてや社長でもない、と信じたい。

「——がんばれ、凛」

来た時と同じルートを逆の順番にたどり、まゆみは『現在の』自分の居場所へと戻っていった。
今日の遅れは今日中に取り戻さなければ。そう、気合いをいれつつ。


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