Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/01/30


1st 03. 「つま先と背中」



今橋のメモによると、月に一度の定例会議は通常1時間程度。
給湯室内の色々な物品の配置をもう一度確認してから、凛は社長秘書室へと戻った。

今日の社長の予定は、10時30分からの定例会議。14時からは取締役が入れ替わりに入り、15時に広報部長、16時に経理部長。 来客予定はなし。とても珍しいことらしい。
来週月曜には1件来客の予定があるが、相手は関西支社長。ということは、グループ内部の人間。 万が一失敗したとしても、何とか乗り切れるだろう。もちろん、失敗なんて許されないけれども。
ふう、と息をついて、これから数日つきあうことになるパソコンを立ち上げる。 電話がどうか鳴りませんように、急な来客がありませんようにと祈りながら、ひたすらマニュアルを頭にたたき込んでゆく。

この社長専用フロアへの出入り口は、3つ。
まず、社長専用エレベータ。これは文字通り葉月専用。 例外として、秘書である今橋と社長車運転手である羽野も使う。地下駐車場と1階フロア、そして社長室にのみ停止する。
次に役員専用エレベータ。役員以上の人間への来客も、これを用いることになっている。 秘書室からはすこし離れたところに位置しているものの、警備用に取り付けてあるカメラと音で到着がわかる仕様。
最後に、非常階段。ただし役員フロア以上へは、各秘書室が解除コードを入力しない限り出入りができない。 つまりこのフロアへは、凛がその権限を持っていることになる。

社長室への入り口は、2カ所。秘書室を通って入る正規の入り口と、もうひとつは——。


「がんばってるな、新米秘書さん」
「ひゃっ!」
「・・・あ、ごめんごめん」

一心不乱に文字を追っていた凛は、予告なく肩に手を置かれ、文字通り飛び上がった。
秘書用のデスクは他の社員が使うものとは異なり、カウンターも兼ねたものになっている。 凛が腰を下ろした状態で、胸くらいの高さにカウンターがある。デスクからカウンターまでの空間は相手からは見えず、 書類やメモも隠せるような作り。ホテルのフロントに似ている、と一見して凛は思った。

「あ、あの、失礼しました」
何とか気を取り直して、顔を上げカウンターに肘をついている中年の男性を見上げ、次いで立ち上がって頭を下げた。
「こっちこそ。あなたが日下部さんですね? 運転手の羽野です。羽野章仁といいます」
左手に白い手袋を両手分持ち、空いた右手で気軽に握手を求めてくる相手に、凛も笑って手を出す。 40台前半くらいだろうか、葉月よりも年上なのは確かだ。
「初めまして、日下部です。色々教えてください。ついさっきここへ来たばかりで、何もわかっていないんです」
「うん、今橋さんから聞いてる。じゃ、まず僕が何をしてるかを知らせておくとしようか」
「お願いします」
もう一度頭を丁寧に下げた凛に対して笑い、羽野は「お茶でいい?」と言って奥にある給湯室へ入っていく。
「・・・え」
言われた内容と自然な口調のギャップに、遅れて気がつく。口をついて出てきた声は、何とも間が抜けている。
「あ、わたし淹れて・・・」
「いいからマニュアル読む。時間がもったいない」


   ◇◆◇


『自分の中で優先順位をつけなさい。必ずしも依頼された順番のとおり、ルーティンワークが優先とか後回しとか、それにこだわりすぎちゃダメ。 期限が1週間後のものだとしても、早めに準備を始めていれば、期限ぎりぎりに何か障害が発生したとしても被害は最小限に食い止められるでしょう?  明日何が起こるかわからないんだから、いつも「今」を見据えないと。最優先の案件でも、何らかの障害がある時・・・ つまり信号が赤の時は、2番目以降の案件の中から進められるものを探して。でも青になった時はすぐスイッチを切り替えて前に進む。——いい?』

2年近く前、凛が営業部から経理部に異動となった時、何をすればいいのか、何をすべきなのか、何から手をつけたらいいのか—— それらが、全くわからなかった。あまりにも業務内容が違いすぎ、また前任者が海外赴任の為に十分な引継ぎができなかったからだ。
それでも必死に仕事を覚えようとメモ帳片手に質問をぶつけた相手は、その頃から同じ係に所属していた、青柳まゆみ。
凛自身が努力し、まゆみの教え方も的確だったこともあって、どんどん彼女は仕事を覚えていった。 しかし、彼女には欠点があった。厳密に言えば欠点にはならないともいえるが、『期限ぎりぎりに仕事を仕上げようとする』のだ。

期限を破るわけではないから、不平を言う者はいない。ミスも少ないから、尚更。 けれど、ともすると日常業務を優先させようとする凛の仕事ぶりに、まゆみは考えた末、 昼休み中に同じ弁当を食べながら、世間話からさりげなく話題を変えてアドバイスした。

遠回しにではなく、はっきりと自分の欠点を指摘された凛は、翌日から仕事のスタンスを変えた。 思えば、過去に何度も同じようなことを言われたような気がする。けれど、あまりに遠回しすぎて、当時の凛には理解できなかった。
元々『行間を読む』なんてことは不得手で、はっきり言ってもらった方が有難いと思う性格だから、 まゆみに対しては感謝こそすれ、距離を置こうなんて思うはずもなく。

それ以来、だった。
経歴が華やかなゆえに微妙に周りから敬遠され、その空気を察して普段滅多に職場の人間と飲みに行かないまゆみが、凛をたまに夕食に誘うようになったのは。


   ◇◆◇


「有難うございます!」
素直に羽野の言葉に従い、凛は目の前にカップが置かれるまで、意識を手元の書類へと切り替えた。
きりの良いところまで読み終えた頃に、何とも香ばしい匂いと共に、羽野が再び表れる。

「ほうじ茶ですか?」
「うん。おじさんはこれが大好きでね。覚えててもらえると嬉しい」
「承知しました。羽野さんはほうじ茶、ですね」
「社長の好みは覚えた?」
「えっと、コーヒーは半々の確率でミルクを入れたり入れなかったり。紅茶は砂糖がないとダメ、 緑茶は飲めなくもないけれどあまり好きじゃない。実は炭酸飲料が好き。特に・・・コーラが」
記憶を必死にたどりながら言うと、羽野は何度もうなずく。
「そうそう。結構甘党なんだよね、社長は。出張も含めて外での仕事の時は僕が今橋さんの・・・ つまり『君の』代わりを務めるんだけど、食べ物の好みを聞いてると面白いんだ、これが」
「へえ・・・そうなんですね。社長ともなると外でご飯を食べなきゃいけないことも多いでしょうし、好き嫌いあると大変そう」
「んー結構平気な顔して食べてるよ。帰りの車の中で『実は苦手なんだ』って聞くことが多い。・・・ここだけの話、年が離れた弟って気がすることもあるな」

今の話から想像するに、羽野は社外秘書を兼ねている、ということになる。
もっとも、海外出張やその他特別な場合は、今橋が同行することもあったらしい。 幸い凛には関係なく終わりそうだが、羽野はある意味、今橋よりも葉月の近くにいる人間ということになる。
秘書室の奥に別の部屋があり、そこには休憩できるよう簡易ベッドが置かれ、しかしデスクやパソコン等のオフィス機器もある。 一体誰の部屋だろう、と思っていたのだが、なるほどと納得した。羽野のための部屋なのだ。

「じゃ本題に戻るけど、僕の仕事は社長車の運転手。出社時と退社時は社長の自宅と会社を往復してる。 社長の出社時間は一般社員の始業すこし後、9時半。他の役員は10時前後が多いんだ。社長がビル内にいる間は、基本的に僕もここにいる。 今日は今橋さんの奥さんの様子を見に行くように言われていたから、しばらく席を外していたけどね」

だから、社長室が空っぽだったのだ。
そして葉月が時間を気にしていたのは、定例会議の為だけではない。 『社長室に誰もいないことが周りに知れたらまずい』から。社長みずから社内をうろうろしているだなんて、あまり聞こえのいいことではない。

「意識、戻られたそうですね」
「つい1時間前にね。まだ安心はできないって今橋さんは言ってたけど。 ・・・ああそう、君に申し訳ないと伝えてくれって頼まれた。確かに伝えたから」
「はい。——あの、社長が出張される際には、羽野さんがついて行かれるんですか?  来週に2回あるみたいですけど」
「場所によるね。後は、相手先。まあ基本的には僕だけ。 関係役員を一緒に乗せていくこともあるし、部長が実務担当者としてくっついていくこともあるし。 来週のは、ソウルは総務部長で、もうひとつは近場だから僕」
「はい」
新たにメモを取りながらうなずいて、凛は手元の時計で時間を確認した。11時半を過ぎている。 まもなく葉月が帰ってくるだろう。お昼休みにはお茶でいいのだろうか、食事は——・・・。
「・・・あ」
「なに? どうかした」
「わたし、社長のお昼ご飯のことすっかり忘れてました。社食に取りに行かないと」
今橋のメモによると、葉月は毎日社員食堂のスタッフに頼んで、弁当を作ってもらっているらしい。『11時半までに配達してくれる』とあるが、今日に限ってまだだ。
「内線番号があったはず・・・何番だったかな」

気ばかりあせり、けれどその中ですべきことを判断し、内線番号表を食い入るように見つめている新米秘書には、 ごく小さな扉の開閉音が社長室のものであるという考えに至らない。 ましてやすぐ隣に立つ羽野が背筋を伸ばして頭を下げ、凛を見やりくすりと笑っていることも。

「——日下部さん」

耳元で、呼ばれる名前。ささやくような、からかいを含んだような。
ぴたりと動きを止め、凛はおそるおそる上目遣いに顔を上げた。
「しゃ、社長・・・」
「お疲れ様。定例会議は無事終了しました」
「お、お帰りなさいませ」
「うん」
何とか笑顔を作って挨拶をすると、葉月は余裕ある笑みでうなずく。
「電話は何も入っておりません。午後のスケジュールも、今のところ予定通りです。お昼ご飯は、・・・すぐに準備いたしますので」
「昼? 今日は来ないはずだよ。キャンセルした」
「・・・キャンセル、ですか?」
「そう」
おうむ返しに問い返す凛に、羽野が相づちを打つ。
「日下部さん、お昼持ってきてる?」
「わたしは社員食堂で食べてますが・・・・・・ああ、そうでした。ここを離れるわけにはいかないですよね」
「そういう意味じゃないですよ」

またもや耳元で、葉月は凛を落ち着かせるようにゆっくりと話しかける。
身長差があるのだから、たしかにかがんでもらった方が、きちんと聞き取れる。 けれどこの距離は、凛を逆に落ち着かなくさせる。何故って——声が、もろに凛の好みなのだ。
高すぎず低すぎず、心地よくて、・・・良すぎて。しかも、それが耳元で直接に頭に響いてくるのだ。あまり平静ではいられない。



「一緒に外に食べに出ませんか。しばらくあなたに迷惑をかけることになるし、私がおごりますよ。 ここには羽野さんに残ってもらいますから」
「・・・は・・・?」

ついていけない。全然ついていけない。
どこがどうなったら、社長と秘書、それも期間限定の成り行き秘書が一緒にお昼ご飯を食べる、という展開になるのだろう?
しかも運転手が同行しない、ということは、自分に社長車を動かせと? そんなの無理だ。 軽自動車しか運転したことがないのに!  しかもここ3年は完全なるペーパードライバーの状態の人間に、何百万もするような高級車のハンドルを握らせるなんて、絶対にありえない。


「大丈夫ですよ」
「な、何が大丈夫ですか! わたし運転なんかできませんし、第一社長におごっていただくなんて、とんでもないです!」
「・・・じゃあ、日下部さんが私におごってくれるんですか」
「もっと無理です! 今日はお財布に2000円くらいしか入ってませんっ」
「ファストフードでも全然構いませんが? 昔良く食べてたし」
「社長は健康第一でしょう? きちんとバランスが整ったものを食べてください!」

そこで、まず羽野が吹き出した。
つられたように、葉月が肩を震わせ、凛に対し背中を向ける。笑わないように必死にこらえていたが、隠しきれるはずもなく。

「・・・あの・・・・・・」
「っはは、はははは!! 気に入った! いやホントにね!」
「羽野、さん?」
「社長。絶対、退屈しませんよ。この子楽しすぎる・・・!」
「・・・の、ようですね。久しぶりです、こんなに笑ったのは」
は、とようやく息をはいて、葉月は向き直る。
「じゃ羽野さん、後はよろしく。次の予定は14時だから、少しくらい遅くなっても支障はないし」
「承知しました、ごゆっくり」
「え、え?」
言いながら、羽野は凛の肩をぐいと押す。その先には葉月がいて、よろけた凛を片手で受け止めた。
「鍵は?」
「これです」
葉月はもう片方の手で放り投げられた車の鍵を受け取って、何が何だかわからない、という表情の凛の耳元に、口を寄せる。


「行こう」


その言葉にも、声色にも、抗いがたい力があふれていて。
気がついたら、うなずいてしまっていた。


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