Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/02/02


1st 03. 「つま先と背中」



ふわふわと浮いているような感覚で、何となく落ち着かない。
その訳は、毛足の長い絨毯のせいであり、どこまでも降下していく箱の中にいるせいであり、何より。
「どこに行きますか、日下部さん?」
わざと身をかがめ、からかうように声をかけてくる須山葉月社長のせいだ、と凛は思う。
「あの・・・社長?」
地下2階に到着し、躊躇なく歩き出す葉月の後を、ためらいがちに数歩遅れて追いながら声をかける。
「『須山葉月』」
すると、一段低い声が下りてきた。何を今更、と言いかけたが、間髪入れずに葉月は続ける。
「今は勤務時間外です。役職で呼ぶのは勘弁してください。自分の名前を忘れそうになる」
「で、でも社長」
「違う」

振り向きもせず、葉月は歩くペースを上げる。コンパスの長さの違いは、想像以上だ。 カツカツと一定のリズムを刻む音と、走ることに慣れていない、小走りのヒールの音が場内に響く。
「じゃあ、何て呼べば・・・っ!」
その瞬間葉月が動きを止め、凛はその背中にまともにぶつかった。
「ったあ・・・」
「大丈夫か?」
鼻を押さえ立ち止まる彼女に、これ以上ないほど至近距離で、真剣な表情で葉月が顔を覗き込む。
「・・・悪かった」
「い、いえ。だいじょう・・・」
「本当に?」
「は・・・・・・」

凛がうつむこうとすると、葉月の指に顎を捉えられ、くいと持ち上げられる。
2人の身長差からするとそうした方がいい、と葉月が判断したからなのだが、彼女にとっては耳元よりも声が近い気がして、ひどく落ち着かない。
「だ、大丈夫です。こう見えても頑丈ですからっ」
手の平を葉月に向け、必死に訴えるとようやく指が離れていった。それでもまだ訝しげな葉月に、大きくうなずいてみせる。
「それより、どこに行きますか、社・・・あ、えーと・・・」
途中で気がつき、視線を泳がせる凛を、葉月はふっと口元を緩めながら何も言わずに見つめる。 そのことに彼女は気がつかずに、今度は自身の指を顎にあて、考え込む。

「え、と・・・・・・」

人間、肝心なときに肝心なことが思い出せないことが、ある。

普段そんなことは全くと言っていいほどない。なのに、この時だけ。 今この時になって、社長の名字を忘れてしまう、なんて。
つい数秒前に、彼自身がフルネームを口にしたはずなのに。
「うー・・・」
ああどうして、思い出せないんだろう。いっそのこと、一族経営だったら絶対に間違えようがないのに!  みんな『東堂』だったら楽なのに。
などと自己中心的なことを考えていると、ふと、とある友人の名が頭に浮かんだ。 初めて社長の名前を知ったとき、似てる、と思ったことも。
その人の名字は、『高槻』。そうそう、音が似ているって思ったんだった。タカツキさんと全然漢字は違うけど、それに、名前がまるで。
そう、まるで『女の子』のような————。

「・・・は、葉月さん! 良かった思い出せた!!」

嬉しくて、とにかく嬉しくて口に出した瞬間、凛を見下ろす葉月と目が合った。そして——直後に『きちんと』思い出した。


血の気が引く音が、確かに聞こえた。とてもとてもリアルに。それはそれははっきりと。


   ◇◇◇


誰もいない地下2階駐車場。

半ば閉鎖された空間の中で、葉月の押し殺した笑い声がしばらく響く。 お腹を押さえているようだ。それほど笑える、ということなのか。

逃げ出したいのに、つま先はコンクリートで固められたように動かない。
青ざめた後は、一気に恥ずかしさに襲われる。笑ってくれるからまだ良いようなものの、相手はまがりなりにも自分の上司。それも、最上級の。
今度こそクビだろうか。秘書として最短記録なのは間違いないだろう。 離職率が低いと言われる東堂グループの中で、もしかすると社員としても最短か。 ・・・どちらにしても、良いわけがない。
ああ、それよりもともかく、失礼を詫びなければ。

からからの喉を何とかしめらせて、凛は口を開いた。
「申し訳ありま・・・」
「ストップ」
笑い声が若干混じっていたものの、葉月の声が柔らかく制止する。 口許を隠すようにあてていた手を下ろして凛に向き直り、自然と凛は彼を見上げる格好になる。

「——有難う、日下部さん」
「? 社長・・・?」
薄暗い照明が邪魔して、葉月の表情はほとんど伺えない。
「久しぶりです。誰かにそう呼んでもらうのは」
「そう・・・なんですか? でも、ご家族とか・・・」
言いかけると、すぐそばの車のハザードランプが点滅し、葉月は助手席を開け凛を促す。
「長いこと会っていない。もう10年になるかな」
乗り込んだのを確認すると、丁寧にドアが閉められる。そしてすぐに、反対側から葉月が車内へと身を滑らせた。

「さてと」
どんな高級車かと思ったら、ごく普通のセダン。
とにかくほっとする凛の隣で、葉月はエンジンをかけ、ハンドルに左手を置いた。
「どこへ行きますか?」
二度目の、問い。すこしの間を置いて、凛がとある店の名を口にした。
「まゆみさんオススメのお店なんです。病院にも近いし・・・ダメでしょうか?」
言いながら、その手はカーナビゲーションを操作する。葉月が否とは言わない、そう確信しているかのように。
食事の後、今橋の妻が入院する病院へ見舞いに行こうと思っていたことを、察したのだろう。 その気遣いが、葉月は素直に嬉しいと思った。
「——仰せのままに」
凛が、目を丸くする。そしてふわりと、笑った。


   ◇◇◇


ゆるやかに加速していく車。これなら酔いやすい自分でも大丈夫だ、と凛は内心安堵していた。
しかし空の下に出た途端、この車に乗ったことを激しく後悔することになる。
「——ああ、そうか」
「? 何ですか?」
角を2つばかり曲がった後で、妙に納得したようにうなずく葉月。凛が問い返すと、彼はにこりと笑った。

「日本は左側通行だったってこと、実感した」

そんなことは、この国に住んでいれば当たり前。『住んでいれば』——つまり、それが意味するところは。
またもや、血の気が引く。ということは、彼は長く日本を離れていたというわけで。

「・・・止めてくださいっ!! わたしの方がマシです!」
「何故? まあ右ハンドルは久しぶりだけど、免許はあるから」
「久しぶりって、この車はあなたの・・・」
「羽野さんの車です。大丈夫、保険は完璧だって」
「社長!」
「違う。・・・少なくとも『今は』ね」
赤信号で止まり、葉月は凛を見つめる。
口調は丁寧なままだが、その視線が強くて、強すぎて。 ・・・しばらくは頑張ったものの、最初から勝てる勝負ではない。
凛は背中をシートに押しつけて、天井を仰ぐ。

「『今は』、——ですね?」
「そう」


もう、何が何だかわからない。

秘書に対する自分のイメージと現実が、かけ離れすぎている。 唯一の救いは、この日々が数日で終了することが予め決定している、ということで。

その後は、元の生活に戻るのだ。まゆみの許で、毎日書類に追われる日々に。
早ければ、3日後には。遅くても、来週末には。
『だから』——と、凛は半ば無理矢理に自分を納得させることにした。


何故自分が選ばれたのかは、皆目見当もつかない。
末端の社員のひとりである凛にとって、役員レベルの権力闘争などは、文字通り雲の上の話。 日々の仕事をこなすのに精一杯で、ただそれだけで。
それに、今橋課長やまゆみのような仕事は、絶対にできない。 たった数日では、近づくことすらできやしないだろう。秘書としてのスキルはゼロなのだから。
それでも。

それでも葉月は、彼なりの判断材料でもって凛に正体を明かし、秘書としてサポートして欲しいと言ってくれた。
誰でも良かったわけではない、と信じたい。そうでなければ、まゆみにこそ白羽の矢が立ったはずだ。 彼女以上に適任の人は、そうそういないのだから。

『彼女は秘書経験は皆無ですが、気が良く回りますし口も堅いです。 また先ほどのやり取りを拝見する限り、私よりも須山社長のペースに上手に合わせることができると思います』

まゆみが言ってくれた言葉は、凛の胸に宝物のように響いた。 滅多に他人を褒めることのないまゆみが、社長を前にして評価してくれたのだから。
だったら、自分ができることを背一杯やるだけだ。
たとえそれが、世間一般の秘書らしくなくても。葉月の役に立つことができれば。



「もうすぐ着きますよ、日下部凛さん」

凛の気持ちを知ってか知らずか、葉月は相変わらずのマイペース。ご丁寧にも凛の名をフルネームで呼んだ。
程なくレストランの駐車場に車を停止させ、改めて彼女の横顔をのぞき込む。
「・・・有難うございます」
そこに居るのは、どこか吹っ切れたような表情を浮かべる、凛。
葉月が初めて凛に会った時に見た、あの笑顔と同じもの。そう彼は直感した。

社長に対してではなく、秘書としてでもない。
硬さは残っていても、自然体に近い。彼女の素の表情だ、と。

「次は、わたしが奢りますから。——だから今日は、『葉月さん』に甘えます」
葉月は凛の視線をきちんと受け止め、笑みを深くする。
「じゃ、『次』があるわけだ」
「・・・次で終わりです」
「了解。今日のところは、それで手を打ちましょう」

誰が思うだろう? 彼が、日本のみならず世界経済に多大の影響を及ぼす力を持つ、東堂グループのトップだと言うことを。
車から降りようとすると、一足に下りた葉月が助手席まで回ってきた。 差し出された手は、躊躇する凛の手を、やや強引に引き上げる。そして耳元で。
「行こうか、『凛』」
内心どきりと跳ねる鼓動を凛は必死に抑え、軽くにらむ。
「セクハラで訴えますよ?」
「それは困る。業務時間外だけにするから」
「・・・じゃあ、それで手を打ちます」


数時間ぶりに、頭のてっぺんからつま先までの全身に、雲の切れ間から降り注ぐ光を浴びる。
しかし数秒も経たずに、厚い雲に覆われてしまう空。それを見上げながら、凛は自分に言い聞かせた。


展開が早すぎて、自分は相当に戸惑っているのだ。だから必要以上に緊張し、葉月の一挙一動に過剰に反応しているに過ぎない。 これは、あらかじめ内示が出てからの異動ではないのだから、ある意味仕方がないことだ。
そしてその反応を葉月は面白いと思ってくれていて、ちょっとからかっているだけ。それだけに過ぎない。

「この店?」
「はい。平日のランチは大混雑らしいんですけど、この時間なら大丈夫そうですね」
「そうみたいだね」

つながれたままの手から伝わる温かさ、そして手の感触は、去年の夏顔を合わせたきりの兄を思い起こさせる。 ちょうど、葉月と同じ年の頃だろうか。おそらくそう大差はないだろう。
一歩前を歩く葉月の背中。 そして、ふと思いついた『兄』という単語に、これまでの葉月の態度の意味が全部つながった気がして、凛はようやく心を落ち着かせた。


この日々は、数日間。すこしの間だけだ。

この人を見るのも、こうして話をするのも。——声を、聞くことができるのも。


back | top | next
index > opus > Signal Red > 1st > #03 [2]

ひと言 mail form

管理人宛、何でもどうぞ。 → 返信
# アドレス記入の方には、直接返信します。

H.N.

Copyright © 2008-2012, Yuki NANAMI, "EYES ONLY"




إå




Total: