Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/02/02


1st 03. 「つま先と背中」



「——到着」
ランチを食べ、今橋の妻が入院している病院を訪ねた後、再び戻ってきた本社ビルの地下駐車場。
ギアをニュートラルに戻しサイドブレーキを引いてから、葉月はつぶやくように言った。
「有難うございました、葉・・・あ、いえ、社長。次の予定が14時ですから、お急ぎになりませんと」
腕時計で時間を確認しながら、せかそうとする凛。しかし彼女が助手席から降りるも、一向に運転席のドアが開かれる気配がない。

「社長? どうかなさいましたか」
なるべく丁寧に、けれど迷いなくドアを開ける。
「お疲れですか。ですから、帰りはわたしが運転しましょうか、と・・・」
「——大丈夫ですよ。切替に少し・・・時間がかかっているだけです」
「・・・社長・・・?」
凛が首を傾げる合間に、葉月は両手をハンドルに置き、ほんの数秒目を閉じた。 そして再び開いた時の瞳には、その前とは比べものにならない強さが、見て取れる。

これが、経営者としての強さなのだろうか。誰も寄せつけないような、強靱な光。 凛が目にするのは、初めてのことで。
「お待たせしました」
はっと凛が気がついた時には、葉月はすでに車から降りていた。
慌ててドアを戻すと、待っていたかのようにハザードランプが点滅し、ロックがかかる。

「さて、と。仕事に戻りますか『日下部さん』」
「——はい『社長』」

凛、と何度も笑いながら呼んでくれた葉月は、どこにもいない。 少なくとも今は、『東堂グループ社長・須山葉月』以外の、誰でもない。
彼女が無言で車のキィを受け取ると、空になった彼の手は襟元へと向かい、ほんの少し緩めていたネクタイが、わずかな衣擦れの音を立てて締められる。

「14時からは、取締役達?」
「はい。その後広報部長が15時、経理部長が16時です」
「空き時間に総務部長を呼んでください。時間は5分あればいいですから。本人不在の場合は代理を」
「総務部長ですね、承知いたしました」
「それと、今日は外からの電話は取り次がないでください。理由は何とでも。君に任せます」
「——はい」
指示を出しながら歩く葉月の背中は、とてもぴりぴりとしていて、まるで棘が生えているようで。
決して触れてはならないもののように、凛は思えた。


   ◇◇◇


今橋の妻である典子は命の危機は脱したものの、依然としてICUから出ることは叶わない。 実際、凛達が訪れた時も、親族以外ということもあって面会は許されなかった。 看護師に頼んで今橋を呼び出してもらい、待合室に3人して腰を下ろす。


『後は回復を待つだけなんです。今は眠っていますが、ついさっきまでは話もできましたし。 週末で一般病棟に移ることができると医師も言っていますので、月曜には復帰します』

言外に、今日1日の休みだけで構わない、と言っている今橋に対し、葉月は首を横に振った。
『大丈夫です、社長。ご心配には及びませんから』
ネクタイは外しているが、そこは長年の秘書としての貫禄だろう。 品が有り、かつ今橋に漂う雰囲気の柔らかさに、凛は尊敬の念を抱かずにいられない。
だが、しかし。返す葉月の声は冷たかった。
『わたしは、「しばらくついていてあげてください」と言ったはずです。 今すぐにでも退院できる状況ならともかく、この状況では復帰は認められません』
『しかし・・・!』
『仕事に対して責任を感じてくれるのは有難いと思っています。ですが、絶対に認めるわけにはいかない。 ・・・今のは聞かなかったことにします。お大事に』
『社長!』
すっと立ち上がった葉月の隣で、今橋も慌てて立つ。

『何故ですか? 妻は一般病棟に移ることがほぼ決定しているんです。 私は主治医からきちんと説明を受けました。偽りでは・・・』
『ええ、偽りではないことはわかります。「ほぼ」という言葉を医師が口にしていることからも。 ・・・私の知り合いに、医師がいます。よく言っていましたよ。「医者の言葉は、鵜呑みにしすぎるのは危険だ。 かといって聞き流すのはもっと危険だ」と。あなたはどちらですか、今橋さん?』

親子ほども年齢の差がある、今橋と葉月。しかし、凛の目から見て、圧倒的な力の差がそこにはある。
決して、葉月は見下ろすような態度を取っているわけではない。 今橋とて、卑屈とはほど遠く、口調も互いに丁寧で一見対等のようにも見える。けれど、断じて違う。


『奥さんが間違いなく一般病棟に移られて、あなたの付き添いがなくても何ら問題がない、 その状態になるまでは、あなたの復帰は認めません。いいですね?』
ゆっくりと諭すような口調。それは、今橋の主張をことごとく退けるもの。それでも、今橋は口を開いた。
『——今が・・・今が一番大事な時ではありませんか。あと少し、というところまで来ているのに』
その内容は、凛には理解できない。尋ねたいと思い、しかしそれを実際に行動には移すのは憚られる。 先ほどから、2人の・・・というのよりも葉月の気迫に押されて、情けないことに立ち上がることすらできないのだ。 それでも、せめて目と耳だけは、と葉月達の声と表情を必死に追う。

すると、思いがけず葉月は笑顔を見せた。今の今までの厳しい表情とは正反対の、まるで子供のような純粋な笑顔を。

『だからこそ、です』
『社・・・』
『大丈夫ですよ』
葉月の視線は凛へと移り、数歩の距離は彼自身が埋めた。
すこしかがんで差し出される手に、今日何度目だろう、と凛はぼんやりと考えを巡らせながら自分の手を乗せ、 けれど葉月の力を借りずに自力で立ち上がる。するとその手は、まるで凛を安心させるかのように、肩に置かれた。
『羽野さんもいるし、あなたの元・部下の青柳さんもサポートしてくれます。——もちろん、ここにいる日下部さんもね』
柔らかな表情と、近くに聞こえる声。
それらに背中を押されたような気がして、凛は今橋に向かって口を開く。

『今橋課長。今は、奥さんのそばについていてあげてください。 わたし、秘書としてのスキルはゼロですが、課長がお戻りになるまで精一杯やります。頑張りますから・・・っ』
『日下部さん・・・』
今橋は凛と葉月を交互に見て、おもむろに頭を深々と下げる。
『社長を、——よろしくお願いします』
『はい。・・・と、断言できたらいいんですが・・・すみません』
『いいえ。あなたなら、きっと社長にうまく合わせることができると思います』
しゅん、と肩をすぼめる凛に、今橋はほほえみかけた。
『何と言っても、社長自らが選んだのですからね』
『そう。目は確かだからね』
思わず、凛は吹き出した。
『嘘ばっかり。数日間の期間限定秘書なのに、選んだとか言わないでください』
『——降参』
薬の匂いがしみついている待合室に、笑い声が響く。

けれどそれ以降、葉月は貝のように口を閉ざし、黙り込んでしまった。
凛が何度か話しかけても、生返事ばかり。

病院からの帰り道、葉月と凛はほとんど会話を交わすことはなかった。


   ◇◇◇


「社長は、プライベートなことはほとんど口にしないからね。おじさんが知ってるのは、食べ物の好みくらい。 お役に立てそうもないよ」
「そう、ですか・・・」

社長専用フロアに戻った葉月が扉の向こうに消えてから、病院でのやり取りをかいつまんで羽野に説明し、 何か心当たりがないか凛は尋ねてみた。しかし、羽野は首を左右に振るばかり。

「わたし、何か機嫌を損ねるような事を言っちゃったのかなあ・・・ まだ数時間しか話したことはないですけど、あんなに無言のままって初めてだったから」
「聞いた限りじゃないと思うけど、ま、ひとつ言えるのは」
「え、何ですか?」
14時まで後5分少々ある。ほうじ茶の入ったカップ片手に膝をつき合わせた状態で、凛は身を乗り出した。

「君は今橋さんとは正反対なんだよ。社長に対して、全然引かないだろう?  無条件に社長の言うことを認めるわけじゃないって意味で。 ——もちろん、今橋さんがイェスマンっていうわけじゃない。あの人だって、社長にきちんと意見する。 だけどそれは、直感からじゃなくてきちんと論理が通ってるんだ。まあ、そう言う意味では似てるともいうけどね」
凛と葉月が会話するところを数分しか見ていないにも関わらず、羽野の見立ては寸分の狂いもない。 けれど、当たりすぎていて、凛はため息をつく。
「・・・何だか、自分がものすごくバカに思えるんですが・・・」
「とんでもない。経験と性格からくる違いなんだし、良いとか悪いとかは社長が判断することだよ。 社長と社長秘書ってのは、性格合わないとそれだけで悲劇だから」
「そうなんですか? だって仕事でしょう?」
「違う違う」
凛の顔の前で人差し指を数回左右に振り、羽野は笑う。

「例えば、さ。とにかく結論を急ぐ上司と、じっくり経緯を聞いた上で判断する上司が居たとする。 その場合、秘書は同じ対応をするわけにはいかないだろう?  全く逆の対応をしたら、相手はイライラするし機嫌も悪くなる。仕事の能率も落ちる。 ほんのささいなズレが、とんでもないことになったりするんだ。役員・・・いや、社長レベルともなると、判断の遅れやミスは許されない。 それを招かない為にも、秘書は細心の注意を払うものなんだよ。 自分のボスの性格を把握して、『仕事をしやすいように便宜をはかる』。これが秘書の第一条件だと、おじさんは思う」

ぱちぱちぱち。
思わずカップをデスクに置いて、凛は拍手していた。

「——羽野さんの講釈ですか?」
「しゃ、社長っ」
またもや、扉が開く音に気がつかなかったらしい。
あわてて立ち上がる凛にくすりと笑い、葉月はわずかに残るほうじ茶の香りに目を細めた。
「良い香りですね」
「・・・お好きですか? 日本茶はあまり飲まれないそうですが」
「というか、飲む機会が少なくて。打合せの時に淹れてもらえますか、日下部さん?」
「承知いたしました」
頭の中で人数を数えながら、凛が答えていると、エレベータの到着音が小さく響いた。この音は、役員用エレベータ。


「おや社長。迎えに出てくださったんですか?」
「さすが前会長の指名だけのことはありますな。部下に対する心遣いがすばらしい」

降りてきたのは5人。皆それなりに年輪を重ねているが、そのうちの2人は葉月に対する態度がやけに馴れ馴れしく、明らかに品位に欠けていた。 残りの3人も、少し困ったような表情を見せるものの、止めようとはしない。 凛をじろじろと値踏みするように見て、何事かささやき合っている。どう考えても、気持ちの良い話題ではなさそうだ。

これが、東堂グループの役員なのだろうか? 本当に?

「——皆さん」
その場に、葉月の涼やかな声が響く。一喝するよりも、効果があるようだ。

「話なら中でどうぞ。決算が近いことですし、皆さんにも時間的余裕はないと思います。少し早いですが、始めましょう」
凛は慌てないように注意しながら、社長室への扉を開け役員の入室を促す。
うつむき加減にしていると、役員が次々と入っていくのがわかる。

「おや? あの堅物秘書はどこへ行ったんですか、社長?」
凛には気づいていたものの、今橋が出てこないことにようやく気づいたらしい。ねっとりとした声の役員が、凛の目の前で立ち止まった。
「ああ、成程。社長もようやく、今橋を厄介払いされたということですな。やはり秘書は若い子が一番ですしね」
「そうそう。特に社長はお若くていらっしゃるから、特に」

ダメだ。今顔を上げたら、絶対に手を出してしまう。平手打ち・・・いや、アッパーカットくらいやりかねない。それか、蹴り上げちゃうかも。
うつむいたまま、凛は必死に怒りを鎮めようとむなしい努力を続けていた。
この、目の前にある二本の足。いっそこと、身をかがめて足払いをかけてやろうか——太ってる人って、足技弱いからなあ・・・ 面白いくらいに綺麗に倒れてくれそうな気がする。って、ダメだってば!!

直接、凛自身を非難されたわけではない。
葉月と、そして今橋が槍玉に挙げられているのであって、凛ではないのだ。でも、自分のことを言われるよりも腹が立って仕方がない。
ふと、背中に長い指が触れた。安心させるように、2度、数本の指が触れ、そして離れてゆく。


「今橋は、急遽休暇を取りました。彼女は代理です」
その声は、普段の葉月の声からすると驚くほど低く、その場にいた全員が息をのみ、しんと静かになった。
「——日下部さん」
「はい、社長」
「先ほどの件、キャンセルで」
葉月は、振り向かない。柔らかさは戻ったものの、依然として低く、逆らいがたい威厳があった。
「・・・承知しました。失礼いたします」
深々と一礼して、凛は社長室の扉をゆっくりと閉めた。



「——よく、我慢したね」
羽野が、凛が落ち着いた頃を見計らって、声をかける。
「・・・『新社長は、すぐに役員達からの信頼を得た』って、みんな噂してました。でも、嘘だったんですね・・・?」
「嘘じゃないよ。でも、真実でもない。須山社長はとても優秀な経営者だ。 彼が社長に就任してから、着実に売り上げは伸びているし、それを認めている人は少なくない。 けれど、それを認めたくない人たちもいるんだ」
「何故・・・?」

「——社長が、前会長からの指名というだけで、この部屋の主になってしまったからだよ。 いや、正確に言えば・・・『させられた』らしいんだけどね。彼は、元々ここの社員でも何でもない。 創業者の血縁、それも遠い血縁だと聞いている。わたしもそれ以上は知らないが、おそらくこれが一番の理由だろうな」


遠くに、まゆみの言葉が響いた。

『標的にされる獲物は、少ない方がいいしね』


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