Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/02/03


1st 04. 「涙と氷」



昨日の朝まで座っていた椅子に腰を下ろして、凛は意味もなく、ふうと大きく息をついた。
常ならば、蛍光灯の光が降り注ぎ、何十人という人間が忙しなく動き回り、様々な機械が発するモーター音が絶え間なく聞こえる空間。 そして、昨日の朝まで凛の定位置だった居場所。

「・・・やっぱり、落ち着くなー」

蛍光灯は、凛が腰を下ろしている席の周りだけ。
その限られた光の中、機械は目の前のパソコンとすぐ近くのプリンタを除いて、ほぼ全てが停止している。 そして、今このフロアにいるのは、は凛ひとりきり。
それでも、とても安心していられる。

買ってきたペットボトルのお茶を、ひと口含む。 数分前にコンビニで買ったときはとても温かかったのに、短い時間の中ですっかり冷たくなってしまっていた。 それでも、手に包むとわずかに温かい。
改めて、机の上を見る。こざっぱり片づけてあるが、『保留』『要確認』のメモが見えた。
まゆみには怒られるだろうが、やはり休日に出勤してきて正解だったと思う。
昨夜、退社後に外でまゆみと食事をした際、『ひととおり片づけておいたから。心配要らないよ』 とは言われたけれど、全て甘えてしまうのはやはり気が引けた。
加えて、月曜日から経理部に戻るのはまず無理だろう、という推論に達したから。

保留扱いになっているものや、早急に片づけた方がいいもの。 処理をする際に注意が必要なものを分類し、ひとつひとつに凛はメモをつけていく。まゆみが見れば、すぐにわかるように。
すでに処理されてなくなっている書類も多く、周囲に負担をかけている、ということを実感する。 たった1日でも、凛は『経理部の人間ではない』と見なされてしまったのだ。


『経理部主任 青柳まゆみ 同じく係員日下部凛
  両名に情報システム部への併任を命ず』

凛の処遇は、表向き経理システムの見直しの為、情報システム部への併任という形を取られた。 期間は未定であり、凛は基本的に倉庫と化している旧サーバ室に在室し、 まゆみは経理部と旧サーバ室を適宜行き来する——というもので、社長秘書という言葉の欠片すら出ていない。
また秘書課へは、課長の今橋は数日休暇を取ることになり、課長業務の代理は課長補佐に一任する、 との葉月の意向が羽野を通じて伝えられた。代理の社長秘書の人選は、との補佐からの質問には、 『休暇は数日の予定の為不要』としてきっぱりと退けたことは、言うまでもない。


この一連の動きには葉月なりの配慮があったからなのだが、凛にとっては『居場所がない』と言われたも同然だ。
冷静に考えれば、この処置はむしろ感謝すべきだと、頭ではわかる。 秘書業務から解放されれば、すんなりと経理部に戻ることができるのだから。
経理部長も、この騒ぎに巻き込まれる形になった情報システム部長も、突如秘書席に座ることになった凛に対し、 そろって励ましの言葉をかけてくれた。心配要らない、とも。でも————。

「・・・・・・」

もやもやとしたものが、喉の奥にいる。誰かに話そうとしても、うまく声に乗せられない。 書き留めようとしても、出てくるのは抽象的すぎる言葉ばかり。
自分が何を言いたいのか、何を望んでいるのか——それを、説明する術を持たない。

ボールペンをデスクに放り投げ、背もたれに体重を預けると、椅子が軋む音が無人のフロアに響く。
休日だからと落ちるに任せた長い髪が、椅子の後ろに回した腕にちくちくと刺すように触れる。 職場では、いつも結い上げている髪。だからこの感覚は新鮮で、思考を幾分クリアにしてくれるような気がした。

目を閉じ、ゆっくりと息をはく。言葉にならない気持ちを、せめて外に出したくて。


   ◇◇◇


再び書類と向き合うこと数十分。 机の中まで片づけ、残りわずかとなったお茶を喉の奥に流し込んでいると、内線の呼び出し音が鳴った。
凛の最寄りの電話機が着信の光を遠慮がちに放ち、しばらく放置していても止む気配がない。
全部署に設置している経理システムに不具合があれば、基本的に凛が所属する係に連絡が入ることになっている。 ということは、休日に出勤している社員がいるのだろうか?

10コール鳴り続けて、呼び出し音はふいに止まった。と思うと、再び電子音が響き始める。 外線なら自動的に業務時間を知らせるガイダンスに切り替わるのだが、内線の場合は関係ない。
出社・退社等がオンラインで把握できる仕様になっている社内システムにはログインしていないから、 凛が出社していることを知っているのは守衛室の面々だけだ。 それなのに、ひたすらかけ続けているということは、余程切羽詰まっているのかもしれない。
「経理部です」
昨日出された辞令が頭にちらついてしまい、あえて名乗らずに電話に出た。 肩で受話器を支え、メモを取る体制を万全に整えていたのだが、あろうことか相手は大げさにため息をついている。
やっとつながった、という安堵感からもれるものではなく、あきれた、という言葉がぴったりだと確信できてしまうほど。
「あの・・・?」

『——我が社では、上司の許可を得ていない休日出勤は認めていないはずですが?』

多少の電子音が混ざっているとはいえ、この声を聞き間違えるはずがない。 頭で判断するよりも早く、一瞬にしてぞくりと身体を駆けめぐった緊張感が、その証拠。
凛は思わず受話器を耳から離して、しばしそれをまじまじと見つめる。

間違えようもなく、声の主は須山葉月。
何故内線で、何故ここが、何故ここに——と、一度クリアになったはずの思考がパニック状態になる。

『凛? 聞こえていますか』

多少遠くても、葉月の声はきちんと聞こえる。名乗っていなくても、声で自分だとばれているのだろう。 凛は観念して、再び受話器を耳に押し当てた。
「・・・はい、社長」
『今は勤務・・・』
「時間外です。わかっています」
かぶせるように口を挟むと、電話の向こうで葉月が笑う。

『——それで? 誰の許可を得てそこにいるのか、説明してもらいましょうか』

葉月の言うとおり、東堂グループは全体的に休日出勤を厳しく禁じている。
緊急を要する場合、もしくは課長級以上から勤務命令が出た場合のみが例外。 その為、凛はまず守衛室へと向かい、どうしても仕事を片づけたい旨を申し出た上で、ペットボトル以外の私物を預けてきた。 情報漏洩目的ではない、という意味をこめて。
「許可って・・・」
そんなもの、得られるわけがない。表向き、凛の現在の居場所は経理部と情報システム部。 しかし、直属の上司がいるわけでもない。一体誰に許可を得ればいいというのだろう。

『私は許可した覚えはないのですが?』
「・・・申し出た覚えもありません」
『でしょうね。では、服務規程違反という自覚はありますね?』

う、と凛はつまった。
新入社員としての研修期間中、何度も聞いた言葉。それが『服務規程』。
社員が守るべきルールであり、『破ると何らかの懲戒処分が下されますよ』というもの。
よりによって、社長である葉月に知られるなんて。他の人だったら、目をつぶってくれそうなものを。

「——は、い・・・」
『仕事は終わりそうですか?』
電話越しに頭を下げようとした凛をどこかから見ているのかのようなタイミングで、葉月が口を挟んだ。
「仕事・・・ですか? そろそろ帰ろうかと思っていたところです」
いきなりの話題転換にも、凛は律儀に答える。
『では30分後に通用口で』
「え、あのっ」
一方的に切られてしまった、内線電話。ツーツーという音ばかりが聞こえてくる。


はあ、と息をつくと、それがうっすらと白く染まって室内に融けていく。
まさか休日にまで、葉月に会うことになろうとは。
ジーパンにセーター、そして白のコート。およそ秘書らしくない格好の自分。 いくら勤務時間外とはいえ、上司に会うことを考えると何とも気が重い。
それなりの格好をしてくれば良かった、と思いつつ、凛はパソコンのスイッチを切った。



通用口を出ると、道路の向かい側に立つ男性が、凛と目が合うなり手を挙げた。
黒のショートトレンチの下は、濃い色の細身のジーンズ。極めつけに黒のサングラス。 凛の知り合いに、そんな格好を好んでする人など思いつかない。

きっと向こうが勘違いしているんだ、そうに違いない。 そう思ってなおもきょろきょろと視線を動かす凛に、男性は近づいてくる。迷うそぶりすら、見せずに。
近づきつつゆっくりと外されるサングラス。ようやく相手の顔があらわになり、——凛は、固まった。

目が、離せない。あまりに驚いて、あまりに信じられなくて。

「・・・・・・は、葉月、さん・・・!?」

自然と、彼の名前が口をついて出てきた。

どう見ても、どう考えても、社長には思えなくて。
日本でもトップクラスの企業である東堂グループを束ねる、『須山葉月』には。


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