Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/02/04


1st 04. 「涙と氷」 [2]



かれこれ、1分。
壁掛け時計の秒針がきっちり1周したのを凛が確認した後も、葉月は無言のまま、 しかし割と真面目な表情でメニューを見つめている。時折、ページをめくりつつ。

「葉月さん? まだ迷ってるんですか?」
「・・・・・・」
「いっそのこと、コースにします?」
「・・・いや、コースじゃなくていいです。量はそんなに必要ないし。凛が食べたいものを選んでください」
あれだけ見ていたにもかかわらず、葉月はぱたんとメニュー表を閉じて凛に渡す。
「食べられないものがあれば、外しますけど」
「納豆は勘弁してください。それと、セロリ」
その言い様に凛はぷっと吹き出し、あわてて咳払いでごまかした。
「わかりました。それじゃあ、飲み物は?」
「バーボンをストレートで」
「——即決ですか」
苦笑いをこぼしながら、凛は飲み物のメニュー部分を確認する。
何度かまゆみと共に来たことはあるが、バーボンを注文したことはない。 まゆみは酒豪の名に違わず様々なお酒を注文するが、焼酎か日本酒のみ。凛はその日の気分でチューハイだったりソフトドリンクだったり。 そもそも選択肢に入っていないのだ。
一応取り扱ってはいるようだが、最初からバーボンと言われるとは思わなかった。 食べ物であれだけ悩んでいるのに、飲み物だけはいつも決まっているのかもしれない。

休日出勤に目をつぶるかわりに、夕食につきあうこと。それが、葉月の出した条件。
『店の選択は任せます。ただし、美味しい店にしてください』
それが一番難しい、と凛が文句を言っても、葉月は笑うだけ。
結局、定番の居酒屋を選んだ。テーブル毎に仕切りがあり、個室風の造りになっている店。 ここなら、口をすべらせて社長と呼んでしまっても、困らないだろうと思ったから。


バーボンとチューハイが運ばれてくると、葉月はグラスを少し持ち上げ、凛にも促す。硬質な音が、2人の間で響く。
舌を湿らす程度に口をつけてから、凛はおずおずと切り出した。
「あの・・・どうしてわたしが会社にいるってわかったんですか?」
「君が考えそうなことはわかります。突然異動させられて、引継ぎも満足にできなかった。 それに、日曜日は知人と映画に行くと言っていたでしょう? だとしたら今日しか動ける日はない。至極簡単です」
「それって、単純ってことですね・・・」
「何とでも。でもおかげで、まともな時間に食事が取れます。感謝すべきかな」
「・・・そういう感謝はいらないです」
「はは」

黒のショートトレンチの下は、黒のシャツにオフホワイトのカシミヤセーター。定番といえば定番。けれどひと目見て上質のものとわかる。
凛よりも20センチ以上背が高く、細身でジーンズが良く似合う。店までの道すがら、何人もの人が葉月を見て振り向いた。 中には、指さす女性もいたくらいだ。
昨日は車移動だったし、ランチの時もあまり人がいなかったから、この類の視線には気がつかなかった。 何より、凛自身がそんな余裕がなかった。けれど、今ならわかる。葉月は人の目を惹きつける何かを持っているのだ、と。


そんなことを考え始めると、何となくまともに顔を見られず、かといってまだ料理も来ないので飲み物を口にするしかない。
ようやくサラダがテーブルに乗った時、すでに凛のグラスは空に近かった。 自分にしてはかなりのハイペースだが、同じものを再度注文する。

「食事とか、どうしてるんですか。羽野さんは、いつも社長の自宅まで送ってるって言われてましたけど」
「その時々だけど、大抵着替えてから外に出て食べたり買ってきたり。さすがに、コンビニに社長車で乗り付けるわけにはいかないし」
「確かに。想像すると笑えます。うーん、でもやって欲しい気もします」
「凛は?」
「わたし? わたしは、自炊と外食と半々です。週に1回はまゆみさんと出かけるけど、まゆみさんグルメだから、 すっごく美味しいお店ばっかりでいつも食べ過ぎちゃうんです。ここも、まゆみさんに教えてもらったお店で・・・」
「仲が良いんだね」
「お姉さんみたいな感じです。尊敬できる先輩だし、仕事以外のことでも相談できるし。 昨日も、まゆみさんがいなかったら絶対乗り切れませんでした」
「ふうん」

その後はしばらく、仕事の話になった。
とはいっても、しゃべるのは専ら凛の方。営業部にいた時のこと、経理部のこと。 そのどれもが、葉月がこれまで知りたくとも知り得なかった、一般社員の生の声。 個人に対する批判は彼女の口から出ることはなく、組織に対する不満が出るわけでもなく。
凛が、仕事をすることを心から楽しんでいて、過去の失敗も笑い話として話してくれることも、葉月にとって嬉しかった。
いつの間にか皿は全て空になってしまい、葉月は相変わらずバーボン。 凛は3杯目のチューハイを飲み終えた時点で、葉月がウーロン茶に強制的に取り替えていた。


「わたし、兄とふたり兄妹なんですけど、・・・失敗して、落ち込んでる時に限ってお兄ちゃんからメールが届くんです。 風邪引いてないか、とか何てことない内容なんですけど、すごく、嬉しかったなあ・・・」
「今は、それが青柳さんの役目?」
「うーん、そうかも。だって、もろに理想のお姉ちゃんだし。あ、お兄ちゃんのことももちろん好きですけどね。夏と冬しか会えないけど・・・」
葉月が聞き上手なことと、酔いがかなり回ってきたのも手伝って、緊張が取れた凛は聞かれもしない兄のことを話し始める。

「ちょうど、葉月さんと同じくらいの年じゃないかな。今年、30歳なんです。葉月さんは?」
「——同じ」
「やっぱり。だからかな、葉月さんと話してるとお兄ちゃんを思い出しちゃう。 わたしの名前の呼び方が、すっごく似てるんですよ。それに、煙草吸うところも」
「バレてましたか」
「そりゃもう」
ふふふ、と凛は笑う。
「初めて会ったとき、服から煙草の香りがしました。それに、お昼ご飯の後、スーツの内ポケットに手を入れようとして、途中で止めたでしょう?  だから、社長ご自身が吸っていらっしゃるんだって思ったんです。——あ、月曜日はちゃんと灰皿置いておきますから。 でも止めた方がいいですよ? だいたい、煙吸いたいんなら、いれたてのコーヒーの香りを吸えばいいじゃないですか。 煙草は健康に悪いんです! というか、良いことひとつもありませんから!」
「・・・はい」
びし、と指をさされ、葉月は苦笑した。今橋や友人達からも何度となく言われてきたが、凛の言葉が一番堪える。
けれど、話の内容はともかくとして、酔った凛はどことなくふにゃふにゃとしていて、 論理展開が一本線が通っているようで微妙にずれていて、それが何とも言えず可笑しいし面白い。
笑ってはいけない、と必死の葉月をよそに、凛はしゃべり続ける。

「それに、せっかくの声を、煙草吸ってかすれさせちゃうなんてもったいないです。 わたし、社・・・ううん、葉月さんに名前を呼んでもらうの、好きですから」
「・・・・・・」
ふと、葉月が真顔になった。グラスを持つ手を止めて、凛をまっすぐに見つめる。だがその視線に、凛は気づきはしない。
やめられない気持ちもわかるような気がするとか、精神安定剤って言いますよね、などとぶつぶつとつぶやいた後で、ぱん、と両手を叩いた。
「そうだ、月曜日から灰皿撤去しましょうっ!」
「え? それは、ちょっと・・・」
「ダメですよー。思い立ったが吉日って言うでしょう?  お兄ちゃんは止めてくれないから、だから葉月さんには今から止めてもらいます!」
言うなり、はい、と凛は手のひらを差し出した。
「・・・は?」
「煙草とライター。出してください」
「え」
「持ってるんでしょ、葉月さん」
にっこりと微笑みを浮かべて、けれど手はどんどん葉月へと近づいてくる。 出す気配がない葉月に焦れて、凛はテーブルを回り、隣へと腰を下ろした。


「その・・・——出す前に、ひとつ尋ねたいんですが」

身を乗り出してくる彼女の手首をつかんで動きを止め、葉月は顔を近づける。
「はい・・・?」
「お兄さんの他に、君のことを名前で呼ぶ男性は?」
「・・・葉月さん」
空いた手が、葉月を指す。まだ酔いは残っているものの、凛の思考回路は一応回っていた。
「他にはいない?」
「んーと、大学の時の彼氏、かなあ。昔むかしですけどね・・・あ、後はお父さん。病気で死んじゃったけど・・・」
「・・・ごめん」
当時のことを思い出したのか、凛はじんわりと目尻に涙を浮かべ、ふるふると首を左右に振って笑顔を見せた。 けれど間に合わず、ほろりと一粒、重力に逆らうことなく葉月の手の甲へと落ちてゆく。
「だから、お兄ちゃんと葉月さんだけ、です」
「じゃあ——問題ないわけだ」
「・・・は・・・・・・?」


葉月の口調がいきなり変わった——と気付いたときには、つかまれた手首にぐっと力がこめられ、もう片方の手は頬にあてられていて。 そして、これ以上はないほど、葉月の真剣な顔が近くに、あって。
とても、とても柔らかいものが、一瞬——・・・くちびるに触れ、て。


「——煙草とライター」

バーボングラスの中で、カラン、と融けた氷の音が頭の奥で響く。
固まる凛の目の前で葉月はポケットから煙草とジッポーライターを取り出し、彼女の手のひらに乗せた。


社長でもなければ上司でもない、『素』の笑顔を浮かべて。


   ◇◇◇


「南北線?」
「えっと・・・東西線です。ここからだと」
「そうか」

いつのまにか、しっかりと握られている手と手。 まだ酔っているから、というのが葉月の言い分だが、酔いはさっきの一件で完全に醒めてしまった。

顔が見たいのに、顔を上げられない。手を離して欲しいのに、そうして欲しくない。早くひとりになりたいのに、まだもう少し、そばにいたい。
どうしたんだろう。どうして、こんなにどきどきするんだろう。


「・・・昨夜あれから、もう一度病院に行ってきた」
「課長の奥様の?」
「ああ」
ふいに口を開いた葉月を、反射的に見上げる。身長差のせいか、表情までは見えない。
明らかに変化している口調。けれど、不思議と違和感はない。社長としての葉月と、プライベートの葉月。 どちらも、すんなりと受け止めることができる。
そのおかげで、たった今までうるさいくらいに跳ねていた音はきれいに消えてしまい、かわりに冷静さが戻ってきた。

「主治医とオレの友達が知り合いで、奴にもカルテを見てもらったんだが・・・一般病棟に移るには、 最低でも後3日は様子を見る必要があるらしい。頭を強く打っているし、他の内臓への影響も否定できないそうだ」
「そう、ですか・・・」
「今橋さんには、火曜日まで休暇を取るように伝えてきた。水曜日以降のことは、火曜の夜に決める。 だから、凛には火曜日までは秘書の仕事をしてもらいたい。——問題ない?」
「はい。経理の仕事は取りあえず片づけましたし、大丈夫です」


話がちょうど途切れたところへ、駅が見えてきた。
「葉月さんは東西線ですか?」
「南北線」
「じゃあ、ここでお別れですね」
南北線沿いの駅は、ここからもう少し歩く必要がある。凛は目の前の横断歩道を渡り、葉月は左手に進まなければならない。
ちょうど、目の前の信号は青になったばかり。たくさんの人が歩き出す。


「今日は、ごちそうさまでした。次はちゃんと、わたしが奢らせてもらいますから。それじゃ、おやすみな・・・」
頭をきちんと下げ、つないだままの手を離そうと、した。その、つもりだったのだが。

今度は、一瞬じゃなかった。引き寄せられて、ゆっくりと時間をかけて。まるで味わうかのように——葉月は凛のくちびるに触れた。
わずかに残る、凛が飲んだことのないバーボンの香りがやけに生々しくて、自分が何をされているのか、 相手が誰なのか、それをはっきりと彼女に再認識させた。
途中で離された手は、無意識のうちに葉月のコートをつかむ。まるで、行き場を求めるかのように。

「・・・・・・っ」
ようやく解放されて肩で息をする凛の頬を、大きな手のひらが優しく撫でる。
「ど、して・・・」
とぎれとぎれの問いに、答えは返ってこない。けれど、視線が外されることはなく。
そうしているうちに、冷たい夜風が吹く方向が変わった。車の流れ方が、90度動いてのものへと変化する。

「おやすみ、凛」

もう一度微笑み、耳元でささやいてから、葉月は凛を文字通り置き去りにした。
振り返ることなく、それ以上声をかけることもなく、立ち止まることもなく。


凛が進むべき方向の信号は、赤。
しかし青だとしても、足が動きそうになかった。



心が————パンク寸前で。


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