Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/02/05


1st 05. 「痛みと棘」 [1]



「・・・広すぎ」
雑巾を動かす凛の口からもれるのは、羨望よりもあきらめの度合いが強い。
初めてこの部屋に入った時には、目を輝かせたものだ。これくらい自分の部屋もあればいいのに、そしたらもう少しモノが置けるのにと。
だがそんな思いは、ものの数分で崩れ去っていた。それも、金曜日のうちに。


凛が高校まで使っていた机の、ゆうに3倍はあるデスク。 その上には、デスクトップタイプのパソコンにスキャナ付きのプリンタ、多機能電話に秘書室と直接つながるインターフォン。 視線を右方向にずらせば、特別にあつらえたとしか思えない、木製の重厚なキャビネット。左手には休憩室への扉。
デスクのすぐ近くには、ソファセット。7人まで対応可能で、小さな打合せの場合はここを使う。 金曜日に凛自身も腰を下ろしたが、沈み込むでもなく固いでもなく。適度な弾力があり、今はとても怖くて近寄れない。 伸ばしてもいない爪だけれど、少しでも引っかけようものなら、自分の同僚がにっこりと笑いながら目の覚めるような額の請求書を回してくるだろう。 果たしてひと月分の給料で足りるのやら。
前方には、20人は楽に座れる広さのテーブルと椅子。スイッチ一つで壁から現れるスクリーンに、 プロジェクターやその他必要な機材を収納している小さめのキャビネット。 『少人数の会議』であれば、ここで事足りるという。また、VIP並の来客の場合、ここを使うことも多いとか。


さすが、としか言いようがない。
東堂グループの社長室とはこういうものだ、と踏み入れた者全員に無言で訴えかけている部屋。
きらびやかではないけれど、すべてにおいて上質という言葉がふさわしい。

こんな世界は、こんな空間は、自分とは縁がない世界——そのはず、だったのに。



「えーと、次はソファテーブル」
いちいち口に出さないと、どこを掃除してどこをしてないのかを忘れてしまいそうになる。 ひとりきりなのを良いことに指さし確認をしつつ凛は室内を動き回る。
テーブル上には品の良いクロスが中央に置かれており、その真ん中にはガラス製の灰皿。 かなり大きく、片手で何とか持ち上げられる・・・それほどに、重い。
「・・・・・・」
それをしばし見つめ、凛はその場にしゃがみこむ。
空いている左手でジャケットのポケットを探り、取り出したのはライター。目の高さまで上げて、少し斜めに傾ける。
凛がそれまで目にしたことがある長細いライターとは違い、縦横が同じくらいの大きさ。 眩しくはないが控えめでもない輝きがあり、それなりに厚みもある。
派手な装飾はないものの、羽のような模様が刻まれている。 そして、その模様を妨げないよう、けれど重厚な書体で「H.Suyama」とのネーム入り。そのすぐ下に、数桁の数字も見て取れる。

一見して、高そうなライターだ、と思う。実際『高そう』ではなく、『高い』のだろう。

何となく値段が気になって、ネットで同じ物がないかと探してみた。 だがZIPPOはライターのメーカーとしては有名で、何十種類と言わないくらいのデザインで溢れているということを、彼女は初めて知った。
兄も煙草を吸うが、いつも100円ライターばかり。他にも数人喫煙派の人間が知り合いにいるが、このタイプは見たことがなかった。
国や地域の限定デザイン、年ごとの限定、会社などのノベルティとして扱われることも、個人でオーダーすることも可能。 値段も幅がかなりあるようだが、とにかく想像もつかないので、種類が豊富な1000円台から探し始めたのが運の尽き。
探しても探しても、終わりがない。しまいには目が疲れてしまって、そのまま眠ってしまった。

煙草の方は、残りが3本だったこともあって即座にゴミ箱に入れたが、ライターを同じように扱うことはさすがに出来なかった。
凛の好きなように、とぼんやりした思考の奥で葉月が言ったように記憶しているけれど、はいそうですかとは捨てられない。


「・・・やっぱり、返した方がいいよね・・・」

高価か安価かは関係なく、何かしらの思い出があるはず。もしかしたら、誰かからのプレゼントかもしれない。 喫煙家の恋人へのプレゼントとしては最もポピュラーなものなのだし、あの外見から言ってそんな経験があっても全然おかしくない。
それも、一度や二度じゃないかもしれない・・・・・・と、考えがそこに行き着いた瞬間、凛はむう、と頬をふくらませる。

別に、何を言われたわけでもない。けれどそれでは、あの行動の意味がわからない。
酔っていたのなら、ちゃんと教えて欲しいと思う。
そうじゃないと————。



もう片方のポケットに入れていた携帯が、震えながら8時を告げた。
残り30分で始業時間。それまでに掃除を終わらせなければ、と気持ちを切り替える。

絨毯がしきつめられている足元は業者が定期的に清掃するけれど、テーブル上などの掃除は秘書の領分。 経理部の時も毎日やってきたけれど、社長室ともなるといつも以上に気合いが必要。
特に会議用のテーブルは大きく、パンプスを脱いで上に上がる必要があるほど。 今橋課長はどうやって掃除をしていたのだろう、もしかして同じことをしていたのだろうか?  手を動かしながら初めこそくすくすと笑っていたものの、半分も終わらないうちに腕が疲れてきた。 思ったよりも重労働なのだ、と気づいてももう遅い。
それでも何とか終わらせて、次は、と社長専用の休憩室へと続く扉の鍵を解錠する。が、しかし。

「あ、あれ?」

いったん首をひねり、すぐにああ、と凛はうなずいた。
「——そっか。土曜日社長が出社されたんだったっけ」
鍵をくるりと回したはずが、逆に施錠してしまった。金曜日に閉めたはずなのだが、考えてみれば翌日の土曜日、 葉月は社長室から経理部に内線をかけてきたのだから、何ら不思議ではない。葉月が、閉め忘れたのだろう。


慎重に反対方向に鍵を回し、ノブが回るのを確認してからゆっくりと扉を開ける。 ここは、見るのも入るのも初めての空間。金曜日はまゆみとの約束の時間が近づいていたこともあり、葉月が社長室を出るなりすぐに施錠してしまったのだ。

改めて見渡すと、やはりこちらも広い。
ソファベッドに、クローゼット。扉はシャワールームやトイレに通じているのだろう。
さながらホテル並の設備があるのだが、ここで葉月が寝泊まりしたことはない、と今橋の残したメモにはあった。
2日に一度清掃業者が入るのだが、それでも一応ゴミなどをチェックする必要がある。

「失礼します」

一応声をかけてから、部屋に足を踏み入れる。
ソファの近くにあるゴミ箱を見つけ、近づこうとして——あと数歩のところで、凛はぴたりと動きを止めた。


はっきりそれとわかる寝息。
半分以上ずり落ちている、綿毛布。

今の今まで凛の思考のほとんどを占めていた人が、実に気持ちよさそうに眠って、いた。


   ◇◇◇


一昨日とは違うシャツ。でも、仕事用のものとは違う。
髪だってすこし乱れているし、明らかにうたた寝じゃなくて『眠って』いるとしか思えない。

「・・・社長・・・?」

葉月は、凛の兄と同い年。最近はなかなか会えないとはいえ、兄の寝顔は数え切れないほど見てきた。 すこし前までは一緒に住んでいたし、社会人としての兄も知っている。
遊び疲れにせよ仕事疲れにせよ、家のリビングのソファで寝こけていることは、日常茶飯事に近かった。
髪の毛を軽く引いたり、頬をぺしぺしと叩いたりしてあきれ顔で起こす妹に、『兄ちゃんは、何でも全力投球なんだよ』——なんて、言い訳していたっけ。

あの時の兄と、変わらない。・・・変わらない、はずなのに、これ以上近寄れない。
たった三歩の距離が、埋められない。


「——社長」
声を幾分潜めて、それでもきちんと葉月の耳に届くように。
すると、葉月が身じろぎした。肩のあたりが寒いのか、半分以上落ちかけている毛布を手で探り当て、引っ張り上げようとしているのが見て取れる。 凛が手伝うべきかを迷っている間、葉月の手は毛布と格闘し続け・・・しかし間に合わなかったらしく、彼は小さくくしゃみした。立て続けに、2回。
そしてようやく、毛布が葉月の首筋近くまですっぽりと覆う。
「かーわいい。何か、社長って気がしないなー」
子供みたいだ、と凛は思った。
このソファは背もたれ部分を簡単に倒すことができるものなのに、葉月はそのままにして眠っている。 大人が3人くらい座れる広さがあるのだが、身体を横たえるとなると、それでも足りない。 身体のどこかを曲げる、丸めるなどをしなければ。
目の前にいる葉月が、まさにその状態だった。まるで母親の胎内にいる赤子のように、膝を曲げ背中を丸くして、毛布にくるまれている。

「そんなに寒いのかな。空調は効いてるけど」
このビルは最新鋭の空調設備を導入している。特に社長専用フロアである最上階は、暖かすぎるということはないが、 身をすくませるほど寒くもない。動き回っている凛は、ジャケットを脱いでいるほど。
それなのに、葉月は毛布を離そうとしない。
ふふっと笑みをもらしながらも、先ほどの葉月のくしゃみを思い出して、凛は口元に指を当てる。
「風邪、かな・・・。医務室に行ってもらった方がいいかな」
心なしか、顔色が悪いような気もする。
「・・・ちょっと、すみません」
本人は寝ているけれど、と思いつつ三歩の距離を埋め——膝をつく。

手を裏返し、額を覆う前髪をゆっくりとはらう。指を軽く額に押し当ててみたものの、特に熱いとは思わないが、ひんやりとした感触もない。
「あれ? わたしより低い・・・?」
首をかしげながら、今度は自分の額の温度を同じように測ってみる。が、やはりわからない。
「た、体温計・・・あ、それより先生呼んできた方が早いよね。医務室は9時から開いてるはず」
自分の言葉にうん、とうなずいて、毛布をきちんとかけ直す。 次いで、足下に無造作に置かれた靴をそろえようと、身体の向きを右方向へと変える。寝ている葉月に、背中を見せるように。

「おっきな靴。お兄ちゃんのと、どっちが・・・」
言いながら伸ばした腕は、何故かぐっと背中方向へ引かれた。
「・・・え、な・・・?」
痛いくらいに掴まれて、文字通り『引っ張り上げられ』た。 時間にして一秒も満たないうちに、凛の身体は何故かソファに座らされていて。

「——隙あり」

耳の後ろからの笑いを含んだ声が、凛の思考を止めた。


   ◇◇◇


「凛」
「・・・知りませんっ」

聞かれてた。ひとりごとを、全部。

冷静に考えれば、聞かれて困ることなど、凛はほとんど口にしていない。 それどころか、寝たふりを決め込んでいた葉月の方が後ろめたいはずなのに、凛は耳まで紅色に染め上げて、『知らない』と繰り返す。
対して葉月は、余裕たっぷりの態度。寝起きとは、とても思えない。


「何を? 何が『知らない』?」
「だから、知りません! それにっ」
「8時26分」
これ見よがしに視界に入ってくる腕時計に、彼女はうっと黙り込んだ。 すぐさま抑えた笑い声が直接頭に入り込んできて、体温が一気に上昇する。
「凛の方が、熱があるみたいだな」
「だ、誰の・・・っ」
「ん?」
吐息の近さに、それだけ葉月との距離の近さを実感してしまって、びくりと身がすくむ。

背中越しに腕を伸ばされ、葉月の表情は凛からは全く見えない。 逃げようともがいても、一見華奢なようにも思える腕は、びくともしない。
それならばと、『ここは職場』だと言おうとしたはずが、いつのまにか話の方向が変えられてしまっていて。 ——しかも、葉月の都合の良いように。

葉月の考えていることが、凛にはわからない。

海外での暮らしが長かった葉月にとって、一昨日の夜のことは、単なる挨拶程度のものなのだろうか?
凛の方は、夜眠れないほどに悩んだのに。まゆみに相談しようと思ってもできないし、久しぶりに会った学生時代の友達には、 終始考え事をしていたことを感づかれ、かえって気を遣わせてしまった。映画の内容だって、ほとんど覚えていない。 見たくて見たくて、ずっと楽しみにしていた映画だったはずなのに——

「・・・いつから・・・」
「ん?」
「いつから、起きていたんですか」
「凛の想像に任せる」
「じゃあ、全部・・・聞いてた、とか」
「何を?」
「・・・何でも、ないです」
「何か言ったのか? 『風邪かも』、とか?」

金曜日に役員相手に対等にやり合う葉月を見た時は、『弁舌さわやかだ』と内心盛大な拍手を送っていた凛だったが、前言撤回。 ああ言えばこう言う、とはこのことだ。
この調子では、勇気を出して一番聞きたいことを尋ねても、のらりくらりとかわされてしまうだろう。

何度か深呼吸を繰り返しながら、頭を切り替え、やらなければならないことを頭の中で指折り数える。
今日は支社からとは言え、凛にとっては初めての『来客』の予定がある。マニュアルをもう一度読んでおきたいし、まだ掃除も済んでいない。
何よりも、この場を何とかしなければ。



「・・・あの」
「ん?」
「いい加減に離してください、・・・『葉月さん』」
「——もう少し」
硬めの言葉にも、葉月はマイペース。ぎゅ、と抱きしめたままに深く息をつく。首筋に息がかかって、凛はひどく落ち着かない。
「こ、ここに泊まられたのは、何か急ぎの・・・?」
「調べ物」
「見つかったんですか?」
「ああ」
凛のおかげ、と続けて発せられた言葉に、彼女は首をかしげる。
「わたしの・・・?」
「そう」
緩められた、腕の力。
それに気がついて、凛は葉月の方を振り向く。
ゆっくりと、どちらからともなく顔が近づいて————数センチ、のところで、壁掛け時計が独特のチャイム音を発する。
それは、始業の合図。凛を社長秘書へと、強制的に戻す音。
はっとして、凛は立ち上がった。
それを止めることなく、笑みはそのままに、しかし口調は明らかに変化させ、葉月は凛の名字を口にした。

「日下部さん」
「——はい、社長」

凛は葉月を見下ろす体勢で答える。頬に赤みが残るものの、自分でも驚くほどにしゃんと背筋を伸ばすことができた。
そのまま、しばらく。葉月は無言のまま、凛を無表情に見つめていた。 感情を内包しない視線は、金曜日の午後に葉月が見せた、あの逆らいがたい威厳を思い起こさせる。冷たさと強さ。絶対的な、力。
ふいに、葉月が凛の手を取った。

「今日と明日、君の力を借りることになると思います。 できれば青柳さんにも・・・場合によってはかなりの時間外勤務をお願いすることになりますが、構いませんか?」

ほとんど反射的に、凛はうなずいた。
「わたしは大丈夫です。主任には、わたしからお話ししておきます」
「では、30分後に社長室へ来てください。詳しくはその時に」
「かしこまりました。それでは、失礼します」

ごく自然に離れる、指。まだ温かみの残るそれをぎゅっと握りこんで、凛は休憩室を後にした。


back | top | next
index > opus > Signal Red > 1st > #05 [1]

ひと言 mail form

管理人宛、何でもどうぞ。 → 返信
# アドレス記入の方には、直接返信します。

H.N.

Copyright © 2008-2012, Yuki NANAMI, "EYES ONLY"




إå




Total: