Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/02/12


1st 05. 「痛みと棘」 [2]



内線でまゆみに話をすると、しばしの無言を経て「5分前に行く」との答えが返ってきた。
「まったく・・・年度末は暇じゃないって言ったはずなんだけど。・・・あれ、羽野さんは? 部屋にいらっしゃるの?」
「外に出られてます。社長からの頼まれ事だとか」
「そう。——そろそろ時間ね」
「はい」
凛はうなずいて、メモ帳とペン、そしてコードレスの電話を手に取った。
「じゃ、入ろうか」
社長室の扉を指さして、まゆみはのんびりとした口調で言った。 脇に抱えているのは、A4サイズのカバー付きノートと愛用の3色ボールペン。 いつもなら小さなサイズのメモ帳だが、彼女はたまにこのサイズを使う。
「——はい」
その、『たまに』には法則性がある。そのことに、凛は気がついていた。

ノックを2回。ひと呼吸おいてから、重厚感あふれる扉を開く。
「社長、失礼します」
「どうぞ」
部屋の奥から、葉月の促す声がした。

ひとつ、長時間の打合せや会議の時。
そしてもうひとつは————まゆみが本気で、仕事モードに入る時。


   ◇◆◇


葉月の言葉は、簡潔そのものだった。
凛達が入室してソファに座り、テーブルに積み上げられた書類を前にしてから、まだ1分も経っていない。

だからこそ、凛は絶句してしまった。頭の中が真っ白になってしまい、何度か口を開こうとしたものの言葉が思い浮かばない。
一方のまゆみは、目の前の書類を食い入るように見つめている。その表情の意味するところは凛には想像もつかない。 だが、彼女が葉月に反論もせず黙っていることが答えそのもののように思えて、余計に何も言えなくなってしまう。

『数年前から、グループ内で大がかりな不正経理が行われています。その証拠を見つけ出すのに、ふたりの力を貸して欲しいのです』

まさかそんなはずは、と思う。・・・否、思いたい。
けれど————


「失礼します」
ふいにノック音がして、凛ははじかれたように立ち上がった。 まゆみも、立たないまでも視線を扉へと瞬時に移す。ただ1人、葉月は柔らかく微笑んで2人を制する。
「大丈夫。羽野さんです」
葉月の言ったとおり、入ってきたのは運転手の羽野。にこにこと人の良い笑顔を浮かべて、両手にトレイを持っている。 慌てて凛が近寄って見ると、載せられていたのは緑茶が入ったプラスチックカップが4つ、そして饅頭が同じ数だけ。

「申し訳ありません、社長。遅くなりまして」
「いえ。ちょうど良いタイミングでした。無理言ってすみません」
「とんでもない。食べたいと思っていたところです」

葉月と羽野がが和やかそのものの会話を交わす中、まゆみはトレイに載せられたものを知って、眉根を寄せる。
それを知った葉月が、青柳さん、と声をかけた。
「片目だけつぶってください。話の内容が内容ですから」
「お言葉ですが・・・」
「食べる食べないは任せます。・・・まあ、ある意味『食べたくなる』話になることは保証します」
「それって自棄食い・・・」
思わず会話に割り込み慌てて口許を押さえる凛に、葉月はくすりと笑う。
「味も保証します。何せ、先々代が好んで食べていたそうで」
「本当にお好きでしたよ。月に一度は必ずといって良いほどでした」
相槌を打ちながら、羽野は凛やまゆみと向かい合うように置かれているソファに腰を下ろす。


葉月は左右に座る部下達を一瞥し、ゆったりと足を組み直した。
カップの取っ手に指を伸ばし、つかむ寸前のところで手のひらを上にする。 遠慮がちにせよ3人がテーブルに向かって身体をかがませるのを見届けてから、ようやく持ち上げた。


   ◇◇◇


「社長」

猫舌の凛がある程度冷めるのを待っている隣で、先にひと口含んだまゆみがつぶやくように言った。表情を曇らせたままで。
「はい」
対する葉月に漂うのは、穏やかさ。余裕すら、ある。
「・・・事実、なのですね? 憶測でも、推論でもなく——」
「事実です。『真実』はわかりませんが」

『ようです』とも、『噂がある』とも、葉月は言わなかった。
ただ『行われている』——とだけ。

「では、凛を指名したのも・・・?」
「出会ったのは偶然ですが、指名の理由にこの件が絡んでいたことは認めます。 あなたが彼女の直属の上司だったことも、含めて。無論、日下部さんの人間性を見込んだから、という点が一番大きいですが」

言い切ってから、葉月は凛へと視線を移す。笑って小さく頭を下げる凛に、まゆみはそっとため息をこぼした。 緊迫した空気の中なのに、どうしても思考がスライドしてしまう。


これは——相当に前途多難だ。普通この場合、顔を真っ赤にするっていうのが相場なのに!
何故、『上司の褒め言葉に照れる部下』になるというのか。自分に好意を持つ人からの甘い言葉、だなんて思いもしないのだろうか?
凛自身の理想に、葉月は限りなく近いはず。何より、あの声。 あんな風に身をすくませる様を見ていれば、とかく声に判断ポイントを置く彼女が葉月のことを好ましく思っているかは、すぐにわかる。なのに、何故?

同じ事を羽野も思ったのか、やれやれ、といった表情で苦笑している。
相手である葉月はというと、あくまで『上司』の仮面をかぶったまま。 こっちの鉄面皮をはぐ方が余程簡単かも知れない、と思う。
ふう、ともう一度息をはきながら、はっとまゆみは我に返った。
膝の上の手の平にいつのまにか載せているのは、和菓子。あろうことか、包みを半分程度開けてしまっている。
すぐ隣で半分程度口に入れた状態の凛が、にっこりと笑った。

「美味しいですよ、まゆみさん。先々代の社長がお好きなだけあります」
「そ、そう。楽しみ」

いつも、こうなる。凛のことを考えていると、自分が普段ならしないような行動をいつの間にか取ってしまう。 金曜日、葉月が凛を連れて行こうとしたときも、そうだった。感情に任せて、周りの状況も考えずに声を張り上げてしまった。
これはまるで、妹を溺愛する姉の図。凛の兄に会ったことはないが、交わした話の端々から容易に想像がつく。
結局食べることになり、内心自己嫌悪に陥るまゆみをよそに、羽野が口を開いた。


「それで社長、『見つけた』と伺いましたが・・・」
「明確な日付はわかりませんが、ある程度の期間まで絞り込みました。 使われた業者の名前も、わかっています。後は、当時の記録を丹念にチェックする『だけ』です。もちろんシステムのログも」
「でも、経理には何人もの人間がいますし、チェックも二重三重にしています。 とても、そんな桁数の多い数字を間違うなんて・・・!」

最初に事が起こった当時、凛は経理部には在籍していなかった。 かろうじて、まゆみが秘書課から異動してきたばかりの時期。けれど、やっていることは大差ない。 経理システムもバージョンの違いはあっても、すでに本稼働していた。
すこしでも入力間違いがあれば即座にエラーを返すくらい、作り込まれたプログラム。 最終的に人の手がかかるとしても、人的ミスを避けるために幾重にも『人の手による』チェックを介すよう、徹底しているのに。
そう凛は訴えたがしかし、葉月は動じなかった。

「残念ながら、人もコンピュータも欺くことが可能です。現に、ここに確固たる証拠があります。 当時情報システム部補佐だった人が、見つけてくれたものです」
「今の経理部長ですよ」
羽野が付け加えた言葉に、まゆみと凛は顔を見合わせた。
「だから・・・情シスから経理に異動されたんですね」
「そうです。私の社長就任のごたごたに紛れてね。幸い、誰からも不満は出ませんでしたよ、 『経理システムの強化』を看板に掲げられたら、さすがに口を挟めなかったのでしょう。 そう言う意味でも、これ以上はないほどの適任でした」

そもそもは現経理部長の職にある清水が、気がついた。葉月が言う証拠も、その時のもの。
だが同期の今橋から先代社長の耳へと伝わる寸前、『奴ら』は先手を打ってきた。 他の役員達を抱き込み、表向き勇退という形を取り実質的に『追い出そう』としたのだ。
しかし、先代も東堂グループを一時は任された身。黙って引き下がるようなタイプの人間でもなく、またその手腕は半数以上の役員が認めていた。 だからこそ、葉月に社長職が巡ってきたのだ。初代のお墨付きがあったことも、強力な後押しになったらしい。 何故葉月に白羽の矢が立ったのかは、会長と前社長が未だに口を割らないのだが。
どちらにしても、葉月には『決定後』に知らされたことなので、実際にどれほどの騒動だったのかはわからない。 が、経済界に激震に近いインパクトを与えたことは想像に難くない。それも、日本のみならず海外も含めて、だ。


「では、社長は最初からすべてご存知で・・・」
「——というより、それが条件でした」
「条件?」
おうむ返しに凛が尋ねると、葉月は笑った。その笑顔は、部屋の奥にあるデスクへと向けられる。

「私は、あの椅子に座りたくて座っているわけじゃないんです。無理矢理に『座らされた』。 何より、この東堂グループは一族経営を良しとしていない。おまけに、私は初代と血縁はありますが直系ではない。 何しろ、親族の中に会社経営者がいることすら知らなかったのですから」
葉月の話す内容は、羽野以外の人間にとっては初耳のこと。まゆみも凛も、ただ驚きつつ耳を傾ける。
「それなのに私を呼ぶからには、何かしら理由があるはずです。だから、真っ先にそれを尋ねました。 『何をさせたくて呼んだのか』と」



覚えている。ここに初めて入ったときのこと。——入らされた時の、こと。
数年ぶりに着たスーツ。窮屈に感じてならない革靴。その重みが現実を思い起こさせてくれる、ライター。
それらを身につけて、須山葉月はちょうど今、凛が座っている位置にいた。

「何故自分が選ばれたのか」ではなく、「何をさせたいのか」と尋ねてくる次期総帥に、 どちらも老人の域に入ろうとしている人物達2人は、葉月の予想に反して顔をほころばせた。


そして、今葉月が座しているソファにいた人物・・・東堂グループ創始者は、重々しく口を開いた。
『たった今から、全ての実権を葉月、おまえに移す。おまえに望むのは、2つだけだ。 どちらも達成できたら、あの椅子から降りて良い。いいか、「どちらも」だ』
葉月がうなずくのを確認してから、もうひとりが話を引き取った。

『ひとつ。グループ全体の売り上げを着実に伸ばすこと。まずはこちらに手をつけてほしい』
『・・・企業として、至極まっとうなことかと思いますが』
何を今更、と思ったことが口をついて出てきたが、2人はただうなずいた。
『そうだ。だが順番を間違えられては困るのでね。というより、君自身が窮地に立たされる』
どうやら、からかっているわけではなさそうだ。
となると・・・昨今の経営状況をもう一度『きちんと』チェックする必要がある。時差ぼけの頭に、葉月は叩き込んだ。

『もうひとつある。これが、厄介だ』
『・・・厄介、とは』
その言葉に、おぼろげながら今回の交代劇が絡んでいるのだと思い至る。そして、それゆえに呼ばれたのだ、とも。



『ここ数年続いている不正経理の実態を、暴いてほしい。私達では、追い詰めることすらできなかった。 証拠も、ほとんどないと言っていい。しかし、不正が行われていることは確かだ。 結果、全てを公にしても良し、闇から闇へ葬っても構わない。 ただし、君がグループ全体を任されていることだけは忘れないで欲しい。 社員が路頭に迷わなくてすむ方法であれば、どんな方法を取ろうと君の自由だ』


   ◇◇◇


再び場を支配する、沈黙。だが、以前よりももっと、重苦しい。
少なくとも、凛にとっては。
「まあ、そういう訳でして。・・・話を進めても?
何でもないことのように言う葉月に、まゆみは神妙な面持ちでうなずいた。羽野は、最初から当然と言わんばかりに。
けれど。
凛はすぐにはうなずけなかった。まゆみ達と同じようには————


「・・・さん、日下部さん?」
近くに響く声と、脇を小突く腕。腕を見ると、持ち主であるまゆみは自分とは反対の方向を見るよう、目線で促す。その先にいるのは、葉月。
「大丈夫ですか?」
気遣わしげな様子の上司に、凛は慌ててすみません、と言って頭を下げる。そして顔を上げた彼女は、まゆみを振り返った。
「わたしも、手伝います。まゆみさんのアシスタント程度しかできませんけど」
「何言ってるの。システムに関しては、凛の方が詳しいでしょ」
ぺろりと舌を出す凛に、まゆみはこぶしを作って彼女の頭を軽くぶつ振りをしてみせる。 つられて羽野も吹き出し、葉月も表情を緩めた。
「皆さんには迷惑をかけますが、よろしくお願いします」


詳細を葉月が説明し、誰が何を、どの期間を調べるかを割り振る。 まゆみは旧サーバ室へと向かい、羽野もそれに続いた。

「これも、社長の『配慮』ですか?」
振り向きざまに食えない笑みを浮かべ、それを隠そうともせずまゆみは葉月に問いかける。
「偶然と言ったら信じますか? 青柳主任」
旧サーバ室は、現在倉庫として利用されている。そこに納められているのは、『とある部署』の過去の資料。
「いいえ、全く」
「——では、そういうことにしておいてください」
「はい社長。じゃあね、凛」
ひらひらと、振られる手。それに合わせるような、羽野の忍び笑い。
2人が扉の向こうに消えてから、葉月は大仰にため息をついた。

「だから、旧サーバ室だったんですね?」
質問と言うよりも確認。なぜなら、とある部署=『経理部』、だから。
「その通り。清水さんの入れ知恵ですよ。それにしても、あなたの上司は敵に回すと怖そうだ。棘がピンポイントで刺さってきました」
「それは社長が、秘密主義だからです」
すまして凛が言うと、葉月はふっと真顔になる。
「・・・手厳しいな、凛は」
「秘書ですから。——それでは、わたしも失礼します。本日のお昼はいつものように食堂のお弁当でよろしいですね?」
「よろしく」
「かしこまりました」


名を呼ばれたのに、凛はわざと聞こえないふりをした。
いつものように動揺する余裕が、なかったから。
「・・・・・・」
一礼して秘書室に下がり定位置に腰を下ろす。しなければならないことは山のようにあるのに、 今はただ、ゆっくりと呼吸がしたかった。けれど繰り返すたびに、増していく。胸の奥に走る、痛みが。


消えない。落ち着こうとすればするほど、冷静になろうとするほど、痛みが強くなる。
それを生み出す棘は、どこにあるのだろう。
何故、抜けないのだろう?


『——それが、条件でした』


どくん。
棘が、刺さる。ひとつの、大きな棘が。


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