Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/03/16


1st 08. 「僕と君」



すっと立ち上がった凛に、2人の視線が集中する。うまく笑えそうになくて、慌てて凛は頭を下げた。
「内輪のお話のようですので・・・失礼します」
「日下部さん」
何とか平静を装ってその場から離れようとする凛の手首を、葉月がつかむ。
「・・・はい」
彼女の口から出た声はいつもに比べて低く抑揚がなく、——感情の欠片もない。顔も、葉月からそむけたまま。

その行動の奥底にあるもの。それは、単に部下から上司に対するものではなく。
ものすごく自己中心的で、わがままで。誰にも知られたくない。誰にも、絶対に。
この場に居たくない。聞きたくない。『今は』葉月のそばに——いたくは、ない。


葉月は無言のまま立ち上がり、掴んでいた手首から力を抜く。弾かれたように背を向ける凛の肩へ、手を置いた。
結い上げてあるため髪で隠れていない耳元へ、彼は顔を寄せる。
「——凛?」
「今はき・・・っ」
前会長の前で何を言い出すのか、と慌てて振り向いた凛の頬に、骨張った葉月の指先があたる。 目を白黒させて固まった凛の目の前に、穏やかに微笑む葉月の顔があった。
「何、怒っているんですか」
「怒ってなんか、いませんっ」
「そうですか?」
「いい加減に・・・っ」
指を外そうと悪戦苦闘する凛をよそに、葉月は隆一郎へと向き直る。


「私が出した結論は、その報告書にすべて書いてあります。刑事事件にはしませんし、円満退社という形に表向きにはするつもりです。 もちろん、全額戻してもらいますが。幸い、今年度の売り上げは前年度比130%の予想ですから、うるさい株主の皆さんも役員の交代程度は黙っていてくれるでしょう」
「——マスコミはどうする」
笑いをかみ殺しながら、それでも威厳を保ったままに隆一郎が応じた。
「不正を行っていた連中がリークするとは思えません」
「甘いな。連中の良心に期待するのか」
いつのまにか話が重要事項に入っていることに気づき、さすがの凛も抵抗を止めた。
「『期待』? ——まさか」
ふ、と葉月は鼻先で笑う。至近距離での冷たく低い声は、部屋の温度をも数度下げるほど。
「あなたよりは冷たいつもりですが」
「何だと?」
首をかしげる先々代に向かって、現当主は事もなげに言い放った。
「懲戒処分もなく退職金は満額保証。それでも不満をおっしゃる方々には、現実というものを少々教えて差し上げました。 裁判になったところで、万に一つもこちらが負けることなどありえません。仮に——」
そこで、彼はいったん言葉を切る。

「仮にリークしたところで、出版社や新聞社のひとつやふたつ、どうとでもなります。 テレビ局も同様。我がグループが取って代われば良いだけのこと。調べてみましたが久しくM&Aも行っていないようですし、 やってみても面白いと思います。——いかがですか」

隆一郎は目を見開き、ややしてソファにどさりと背を預けて顔を上向かせる。見つめる先は、高い天井。
「おまえという奴は・・・・・・」
「お褒め頂きまして」
「あきれとる。誰が褒めるか、物騒なことを言いおって」
「『闇から闇へ』と言ったのは、あなたのはずですが」
「選択肢のひとつだ、莫迦者。何の相談もなしに、勝手に」
「社長は私ですし、引退した人にあれこれ言われたくはありませんね。私の机を探るような人には——特に」

社長の方が余程、タヌキなんじゃないだろうか。心底、そう思ってしまう。

隆一郎よりも策士だし、にっこり微笑んで奈落の底へ容赦なく叩き落とす様も、似合う。似合いすぎる。
経営者としては間違いなく若い部類に入る年齢と、一見クールで隙のないように見えて、ふとしたときに人懐こい笑みを見せるところ。 それらは葉月の実力をうまくオブラートに包みこむ。
そして——相手は油断するのだ。


「仮にもおまえのじーさんを弟に持つ私をいじめて、楽しいのか?」
「『売られた喧嘩は買わねばならぬ』。あなたの弟、つまり私の母方の祖父が大好きだった言葉だそうで」
「はづきぃ・・・」
「血は争えませんね」
これでもう何度目か、隆一郎はハンカチを目元にあてる。
「おまえにはわからんだろうが、私は会社が可愛いんだ。子供みたいなものだ。 それを思うことのどこが悪い。このままおまえの好きなようにもてあそばれるかと思うと——」
「ひどい言われ様ですね」
肩を大仰にすくめつつ、葉月は凛の背に手を伸ばし、押した。逆らえずに2歩、3歩。

「社長・・・?」
「帰りましょう」
「は?」
首から上だけ振り向くと、優しい表情が至近距離。自分の顔が朱に染まっていくのがわかって、凛は慌てて前へと顔を戻す。
「話は終わりました。社に戻らないと」
「待ちなさい。話はまだ」
「今でなくてもいいでしょう」
「葉月」
隆一郎が、身を起こし硬い口調で引き留めた。だがしかし、葉月は歩みを止めない。
凛の身体が強ばったことに気付かないふりをして、コートハンガーから2人分のコートを手に取りながら、振り向くことなく扉を開ける。 もう片方の手は、凛の背にあてたまま。

「お急ぎでしたら、明日にでも」
「・・・『明日』か?」
「——失礼します」

どこか楽しそうな、隆一郎の口調。今の今までの堅さが、一変している。 葉月が言った言葉の中に、彼の笑みを誘うようなものがあったのだろうか?
わけがわからずにいる凛を、葉月はやや強引に廊下へと押し出した。


   ◇◇◇


「お帰りですか?」
別室で隆一郎の妻である佐代子の相手をしていた羽野は、葉月達2人と後ろをついてくる隆一郎を見るなり、目を丸くした。
車を回してくると言って羽野はその場を後にし、葉月は携帯電話が鳴り始めた為に廊下へと出て行き、 所在なげにたたずむ凛を見るなり佐代子は目を細め、ふんわりと微笑む。

「あなたが噂の、日下部さんかしら」
「・・・は、はい。初めまして」
隆一郎が知っているのなら、ある意味当然なのだろう。凛はぴんと背を伸ばし、頭を下げる。
その間に隆一郎は妻の許へと歩み寄り、佐代子の隣に腰を下ろす。

「実に面白いお嬢さんだ。私に対して大笑いしてくれた」
「そ、それは・・・」
「大方、あなたが子供じみたことをしたからでしょう。全く、自分の年も考えてください」
「おまえ、それはあんまり」
「何かおっしゃりたいことでも?」
しどろもどろになる凛を責めず、佐代子は夫に向かってぴしゃりと言い放つ。
しかし、やり込めている立場の佐代子の表情はあくまでも柔和そのもの。小さくなっている隆一郎も、同様。
口をはさまないほうが良さそうだ、と静観していた凛は、いつの間にか佐代子の視線がこちらを向いていることを知る。

「・・・何か、ついていますか?」
自分の服をチェックし始める凛を見て、東堂夫人は口元に手をあてる。
「いいえ、そういうことではなくて・・・安心しました」
「は?」
「あなたのような方が、葉月くんの秘書を勤めてくださっているのだ、と思いまして」
やや細身で、顔色は良いとは言えない。そこはかとない品があり、しかし『はかない』とは異なる。 夫に対してはっきりと自分の意見を言い、それは隆一郎にきちんと届いている。芯が1本しっかりと通った人だ、と思える。
そんな人から『安心した』と言われ、凛はうっすらと頬を染めつつも彼女の言葉を否定した。

「有難うございます。——ですが、わたしは今橋課長の代理でして」
「それはいつまで?」
「今日までです。最後にお会いできて、光栄です」
「そうでしたか・・・それは」
「日下部さん」
妻の言葉を遮り、隆一郎は満面の笑みで凛を手招きする。
「・・・あの・・・?」
「いいからいいから」
何が良いんだろう、と思いつつ凛は隆一郎と佐代子のそばへ近寄る。
ほぼ真正面に立つと身体をかがめるようにと言われ、すぐ隣で首をかしげる佐代子に曖昧に微笑みを返しつつ、 その場に身体を斜めにしつつ両膝をつく。
「あなた?」
「内緒の話。おまえも聞いておきなさい」
隆一郎が、耳元に顔を寄せてきた。夫にうながされ、佐代子も。
はたから見れば、とても奇妙な構図だろう。けれど両方の祖父母と早くに死に別れている凛にとっては、新鮮な感覚。

「葉月が、『今日まで』と言っておったのか?」
「・・・いえ。ですが今橋課長が復帰されましたので」
うんうん、と隆一郎がうなずく。その様を見て、佐代子は何かを感じ取ったのか、大きくうなずいた。 一体何が、と2人へ問いかけようと凛が口を開きかけた、のだが。
「日下部さん、お待た・・・・・・何をやっているんですか」
ノックもなく扉が開かれ、携帯を折りたたみながら葉月が入ってくる。 いるべき場所にいない凛を探し、隆一郎へと視線を移し・・・低い声を発しつつ凛へと大股で近づく。
「葉月に聞かれたくない話」
「・・・成程。先程の話を、佐代子さんにもれなくお話ししましょうか」
凛の手を取って立たせながら、葉月はにっこりと笑う。ただし、目は笑わずに。
「寿命が縮んだらどうしてくれる」
「その時は、最高の医者を紹介しますよ」
「当分医者の世話にはならん。——ああ、そうだ。日下部さん」

隆一郎の声がかかった途端、葉月の両手が凛の耳をふさぐ。その様を見た佐代子は口元に手をあてて肩を震わせ、隆一郎は顎に手をあて口端を上げる。
「社長・・・っ」
「聞かなくて良い」
「何をおっしゃっているんですか。——はい」
凛は強引に手を外し、葉月とのやり取りの間に立ち上がっていた隆一郎を見上げる。

「——また・・・」
凛を、そして葉月を。温かみにあふれた目が、2人を見つめる。



「『また』会いましょう、日下部さん」


   ◇◇◇


どうして?
何で、『また』なんて言うんだろう。

「・・・さん、日下部さん」

もしかして、今週末まで秘書業務をすることになったのだろうか? 月曜か火曜に言われていた、とか?
・・・あり得る。偶然とは言え、今日はちゃんとした服を着てきて良かった。ほんっとーに良かった。
それにしても、社長の言葉を忘れるなんて、何て情けない。仮にも、期間限定でも、秘書だというのに。

「凛」
「は、はいっ!」
「目が覚めましたか」
「寝てません! ただ考えていただけで・・・」
「何を?」
大人3人が楽に座れる車内にいるのに、凛と葉月の距離は限りなく近い。 考え込むうちに知らず知らず凛は葉月の方へと身体を傾け、そんな彼女の耳元に葉月は顔を寄せ、何度となく彼女の名前を呼んでいたのだから。
「——いえ、大したことでは」
「そうですか」
あっさりと葉月は身体を引き、再び分厚い書類へと視線を戻す。
「・・・?」
シートに座り直し、景色を見ようと運転席へ目を向けた凛は、あるはずのものが見えないことに気がついた。
グレーの仕切り板が、ぴったりと視界を遮っている。行きは下ろしていたのに。

「社長、仕切りを下ろしてもいいですか?」
「今はそのままにしておいてください」
「内密のお話でしたら、わたしは助手席に移動します」
「その必要はありません」
ぱたん、と葉月は書類を閉じた。

「私が話をしたい相手はここにいます。——君です」

いつまでも残響となって残る、声。
しかし葉月は、凛を見てはいない。その表情は素の彼ではなく、経営者としてのもの。『仕事の話』だと直感で感じ取り、凛は右手をきゅっと握りこんだ。
「・・・何でしょうか、社長」
スケジュールの変更だろうか? それとも、緊急会議の招集だろうか。どちらにせよ、不正経理に絡んだことだろう——おそらく。
目まぐるしく回転する凛の頭の中に、全く想定外の言葉が入ってきた。


「しばらく休みを取っても良いでしょうか」
「————は?」
「そうですね、明日から3週間ほど」
「さ・・・3週間ですか? しかも明日・・・!?」

休み!? この年度末の忙しい時期に休む? 3週間って、21日間も!?
思いきり声を上げて葉月を見ると、再び彼は書類を広げていて。

「片づけておきたいことがあるんですよ。ちょっと時間がかかりそうでして」
「では、アメリカへ・・・」
「そうです」

今は、3月上旬。3週間後といったら、年度末まで数日も残らない。計算をしつつ、凛ははっと気がついた。

4月で大がかりな人事をやる、と葉月は言っていた。その中に、彼自身も含まれるのだろう。 何しろ、先々代と先代が彼に対して課したハードルはすべてクリアしたのだから。彼を引き止めることなど、できやしない。
アメリカで長く暮らしていたということは、職にだって就いているはず。家のことだってあるだろうし。 他にも大切な——大切なことや、『人』だって、いるのだろう。
ずっとずっと半年以上もの間、会えずにいたのだ。心配だってしている、だろう。恋しく想っている——のだろう。

会いたくて。会いたくて、会いたくて。
声が聞きたくて、触れたくて、抱きしめて欲しくて。
どんな風にその人は呼ぶのだろう。ああ、アメリカだから呼び捨てに決まっている。



「アメリカに行ったことは?」
「・・・いえ」
「今度案内しますよ。何年も暮らしていましたが、全然飽きない。 本当に良いところです。知り合いは皆あの街が気に入っているし、きっと君も気に入ると思います」
「有難う・・・ございます」

嫌だ。もうこれ以上、聞いていたくはない。

「パスポートは? 持っていますか」
ふるふると、凛はかぶりを左右に振る。
「2週間もあれば取れますから、取っておいた方がいいですね。出張もあるかもしれないし」
「——そうですね。そう、します」

お願いだから、これ以上入ってこないで。

「・・・凛?」
「はい」

呼んで欲しい、その声で。
呼んで欲しくない、その声でだけは。

「凛」
「・・・何でしょうか」
葉月の声が、やけに近い。彼がこちらを向いたから、なのか。
「何故泣く?」
「泣いてな・・・」
「——凛」
3度目に聞こえた自分の名前は、ひどくくぐもって聞こえた。
抱きしめられているのだ、と——実感したのは、続けて「莫迦」、と言われた瞬間。



「何、誤解してる」
「ご・・・かい?」
「誰が『辞める』って言った? 誰が『辞めて良い』って言った?」
ぞくぞくする。声だけで、身体中の力が抜けていく。くだけた口調は、素の葉月のもの。
確かに、どちらも言われてはいない。けれど。
「・・・って」
何かを言い返そうとして、けれど志半ばにして砦の前に崩れ去る。
「昨日言おうとしたのに、歩けないほど酔っ払ったのは?」
「う・・・」
「言いたそうにして見せておいて、いざこっちが促すと『何でもない』って黙ったままだったのは?」
「うう」
「どうして何も聞かない? 何とも思ってないわけ」
「違・・・っ! 違う」
「じゃあ何」
まるで、壁か何かに向かって、じりじりと追い詰められているかのよう。逃げるのは許さない、と言わんばかりに葉月は凛の退路を断ってゆく。

「・・・向こうに、アメリカに、帰るんでしょう・・・?」
「帰らないよ」
「だって、『終わった』って」
「取りあえず条件はクリアしたって意味」
「た・・・大切なひと、とかは」
「いない」
葉月は腕の力を緩めて、凛の顔を正面から見つめた。 顔を見られたくなくてそらそうとしても、すかさず大きな手がのびて、それを阻む。
「友人ならいるけど、恋人はいない」
質問の意図を正確に把握して、葉月はきっぱりと言った。目を、そらさずに。

「呼んで」
「え?」
「名前。オレの」
「・・・はづき、さん?」
「もう一回」
「——葉月さん」
「ん」
至極満足そうにうなずいて、葉月はもう一度凛を抱き寄せた。おずおずと、凛の指が葉月のスーツの背中部分を掴む。 拒まれることは、なかった。
本当は、と葉月の声が凛の耳に届く。

「本当は、終わったらL.A.に帰るつもりでいたんだ」
「・・・やっぱり」
ちくり、と凛の胸が痛む。
「でも今は、その必要がなくなった。・・・だから、ここに戻ってくる」
「ここ・・・?」
「そう。——何せ」
言って、葉月はくすりと笑った。その声にびくっと身体をふるわせる凛に気づいて、また笑う。
「オレのこと好きだって言ってくれる凛を、放っておく訳にもいかない。いつ虫がつくかもしれないし」
「な・・・っ」
「違わないだろう?」
「ち・・・」
「凛?」

透き通るような、染み渡るような、深いふかい声色。
偶然知り合って、次の日には社長だとわかって、秘書なんかさせられて。 何がなんだかわからないままに、仕事をして、話をして、いつの間にかキスされて。
最初に気になったのは、声。でもそれだけじゃなかった。話し方も、物腰も、不敵な笑みも、真剣な表情も。 気がついたら、目で、耳で追っていた。どうしようもなく。
「・・・わたし・・・・・・」
わかった。やっと——わかった。はっきりと。
上司としてではなく、兄代わりとしてでもなく、わたしは。
この人が——『須山葉月』が、好き——なんだ。

「・・・っ、き・・・です」

涙で湿ってしまい、今にも消えそうな、言葉。
それでも。
「——うん」
腕の力が強くなった、と思ったら、途端に緩む。涙で濡れた凛の両頬を葉月は手で固定し、こつん、と額に自分のそれを当てた。

「絶対に3週間で戻ってくる。・・・連れては行けないけど」
「わかってます」
にこりと微笑むと、葉月は凛の頬を指で軽くつまんだ。
「・・・った」
「全く、天然ってのも困りものだな。青柳さんによーく頼んでおかないと」
「何をですかー・・・もう、痛いじゃないですか」
「気づかない凛が悪い」
もう一方の頬も、同じように葉月はつまむ。はあ、と軽くため息をついてポケットからハンカチを取り出し、凛の頬にあてた。
即座に「有難うございます」、と礼を言われてしまい、苦笑せざるを得ない。これは前途多難だな、と葉月は思った。
「帰国の時は連絡するから、成田まで迎えに来ること」
「はい」
「土産、何が良い?」
「何でも。・・・何でも、良いです」
「凛。頼むから決めてくれ」
「葉月さん、優柔不断だから」
「・・・わかってるんなら」
「じゃあ・・・マニキュアとか」
「OK。そういうの詳しい奴に頼む。——じゃあ、ラスト」
「はい」


こうして、まっすぐ見上げられることが、嬉しい。
相手は上司で、それも組織のトップである社長。だから好きになってはいけない、と思っていた。言い聞かせてきた。
そう思うたびに、頭の中にはいつでも、赤信号が瞬く。でもそれは裏を返せば、この人に惹かれていたということ。 どうしようもなく、動けずにいた。でもようやく、動き出せそうな気が、する。


この恋が、いつまで続くかなんて、わからないけれど。
でも、大切にしよう。初めて心の底から『好き』と思えた、この人を。


「『これからも』よろしく。——日下部凛さん」
「——はい」

そっとふれるだけの口づけは、最初や2回目とは違って煙草の香りはしなかった。
ただ少し、涙の味がした。


   ◇◇◇


翌日。徹夜で仕事をこなした葉月は、それでも疲れた様子も見せず機上の人となった。

社長の休暇は例によって幹部クラスしか知らされることなく、しかし葉月が落とした核弾頭なみの役員級人事は、一般社員には大した影響はなく。
『まあ、年齢が年齢だしなー』
『そうだよね。みーんなおじさんばっかりだし。いいんじゃない、若返って』
知らない、というのは恐ろしい。それとも、幸せなことなのか。
同僚達の意見を耳に入れつつ、凛は経理部と情報システム部を行ったり来たりする日々に戻っていた。 社長秘書室にはこれまでどおり今橋が座り、手持ち無沙汰になってしまった羽野は、パソコンを毎日触ってはうんうん唸っているとか。

そんな中、経理部では模様替えの準備が着々と進められている。 何でも、経理部長の鶴の一声で決まったのだ、と凛はまゆみから聞いた。細部には手を加えられているが、原案は、凛が作ったものだということも。
実施は係長以下級の人事異動が発表されてから、ということになったが、
「誰が考えたのか知らないけど、結構きちんと練られてるよな」
といった、概ね好意的意見が多く、超がつくほど忙しい時期にもかかわらず、情報システム部も全面的にバックアップする意向をすでに示しているらしい。
「良かったね、凛。誰のプランかは、作業が終わってからの飲み会の席で部長が公表するって言われていたよ」
「・・・あれは、まゆみさんのおかげです」
「何言ってるの。ま、強力な援護射撃があったればこそ、だけどね」
「——はい」
頬を赤く染めながら、凛はうなずいた。



そして、3月も大詰め。月末まで1週間を残すところとなったある日、凛は経理部長室に呼ばれた。

「何故呼ばれたかはわかっているね?」
「・・・何となく、ですが」
そうか、と清水は苦笑をもらした。
「これでも随分、抵抗したんだが・・・まあ、今橋に上手くしてやられたということかな」
「今橋課長に、ですか・・・?」
「そう。大きな貸しが出来たよ」
清水は裏返しにしていた書類を表に戻し、持ち上げた。
「——内示です、日下部さん。解禁は週明けですから、それまでは伏せておくように。いいですね?」
「はい」
ぴんと背筋を伸ばし、部長を見上げる。見慣れたサイズの書類に書かれているのは、彼女の未来。



明日、空港に行かなければ。
なんて言おう? やっぱり「お帰りなさい」だろうか。
それとも————



『経理部係員 日下部凛

  上記の者に総務部秘書課への異動を命ず』


[ fin ]


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