Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/02/23


1st 06. 「花と香」 [3]



ふたりへの2日間のお礼です、と言って葉月がまゆみに渡した名刺サイズのカードには、巷で美味しいと評判のフレンチレストランの名前が書いてあった。 羽野は別の形での礼を考えているから心配いらない、と。そこまで言われては、断ることもできない。
常に予約でいっぱいだとネット上でもっぱらの評判だが、『須山』の名前を出すと当然のように個室に案内された。 あの忙しさの中でいつ手を回したのだろう。秘書の凛が知らないのだから、羽野か、それとも。

まゆみは仕事の関係で数回経験があるが、やはり慣れない。凛ならなおさらだろう。
華美ではないものの部屋全体を包む品の良さに彼女は圧倒されていたが、 テーブルの上にさりげなく置かれていたオレンジのガーベラ一輪に目をとめて、ふわりと微笑んだ。
「ガーベラ好きなの?」
「はい。元気が出る感じがして。・・・まゆみさん、オレンジのガーベラの花言葉、知ってます? 『神秘』っていうんですって」
「へえ・・・知らなかった」
「母もこの花が大好きなんです。薔薇よりも断然こっちだよねって。色も沢山ありますよね。白もかわいいし・・・」
そのまましゃべり続ける凛に対して、まゆみはしばらく相づち以上の言葉を口にしなかった。
どの花でもそうだが、花言葉は複数あることが多い。色によっても、様々に意味を持つ。
オレンジのガーベラには、まゆみが知っている限りでもうひとつの言葉がある。
それは————『我慢強さ』



すでに2回空になり、まもなく3回目になろうかというワイングラス。 その隣に置かれているグラスにミネラルウォーターを注ぎ、まゆみは凛に促した。
「凛、大丈夫?」
「へーきですよー」
「・・・そう?」
とろんとした瞳で締まりのない笑顔を見せる後輩に、まゆみは内心眉をひそめていた。
テーブル上にあるのは、空となった前菜用の皿。明らかに、普段の凛と比べてペースが速すぎる。
「これ、美味しいですねー」
「そうね。——ひとの奢りだと思うと、尚更ね」
言葉を選びつつ、けれど感情をこめないように注意して言ったのだが、凛はふっと黙り込んだ。
くやしいけれど何も言い返せない、とか。言い返すほどのことでもないから何も言い返さない、とか。 そんな類の沈黙ではない。
沈黙を保つのは、彼女がそれが一番良いと思っているから。・・・思いこんでいるから。

「ひと仕事終わって、気が抜けた?」
「そう・・・ですね。はい」
答えるのは、話を振られたから。それが、先輩であり上司でもあるまゆみだから。『だから』、答えているようにしか見えない。
加えて、いつもの元気の良さがないし、そしてそれを隠そうとしない。 それも、相手がまゆみだからこその気安さなのだろうか。それは、嬉しくもあるけれど。
「なんか、やり遂げたって感じで・・・放心状態なのかも」
単に疲れたのだ、と解釈してもいいかもしれないが、今の凛に限っては違うとまゆみは断言できる。
確かに昨日の夜はふたりともほとんど寝ていない。ろくな休憩を取れずにコンピュータや書類と向き合う状態が今日の午前いっぱい続いた。 その間、凛は眠いと口にしつつも常にハイテンションで動き回っていた。
昨年の今頃、年度末処理で午前様が続いた時期があったが、凛のハイテンションぶりは周りの目を引いたものだった。 それが、たった1年でこうも変わるものだろうか? ——否。
仕事が終わった満足感はあるものの、それに勝るくらいの『何か』があるのだ。 そこまで強くないアルコールを積極的に飲みたくなるほどの、何かが。

これは——思ったよりも大きな地雷を踏んだらしい。たった、ひと言だけしか言っていないのに。葉月の奢りだ、としか。
全く、とまゆみは内心深く深くため息をついた。


どうして自分が、こんな役回りを演じなきゃいけないんだろう。
別に頼まれてもいないのに、この状況では『自主的に』動きたくなってしまう。 そしてそれは、結果的に彼の計算通りに動いていることに他ならない。
『あなたなら、安心して頼めます』
わざわざまゆみだけを呼んだ上で、にこりと・・・否、「にやりと」笑ってみせたのだ。 あの、策士め。彼が優秀な経営者、というのは伊達じゃない。血縁だけで選ばれたのではない、 と先週末に確信してはいたが、改めてそれを見せつけられたような気がした。

こほん、と空咳をしてから、まゆみは再び口を開く。
「やり遂げてみて、——寂しい、とか?」
「・・・・・・」
「正直に言って、いいよ。私しかいないし」
ここの会話がもれる心配は、まずない。
これも葉月の配慮かと思うと、妙にくやしい。 このレストランも、この個室も、テーブル上にある美味しい料理もワインも、全部あの男がセッティングしたのだ。 もしかして、この花も? 疑い出せばきりがない。
「じゃあさ、経理に戻れそうでほっとしてる?」
「・・・あはは、実はそう」
「嘘ね」
そうなんですと続けようとした凛を、おっとりと、だが確信がこもった声で鋭く射抜く。 ここで適当に相づちを打つべきだったのかもしれない。けれど、それはできなかった。あまりにも、彼女が痛々しく見えて。
無理に作ったとばればれの笑顔から真顔に戻っていく後輩をちらりと見て、まゆみはワイングラスを持ち上げ、同じ形のグラスに軽くぶつけてチン、と鳴らす。
「何が嘘かは、凛がわかってると思うけど?」
「まゆみさん・・・」

慎重に、待つことにした。決して真正面から彼女を見たりせず、適当に飲んだり食べたりして。けれど。
凛は頬を赤らめるわけでもなく、唇をかみしめるでもなく、ただうつむいて考え込む。 膝の上に置かれているであろう両手は、もしかしたら爪の痕がつくほど、握りしめられているのかも知れない。
それでも、彼女は口を開かない。まゆみのグラスが、空になっても。
「失礼します」
いいタイミングで、ノック音がした。手際よくスープ皿が置かれ、それぞれのグラスがワインで満たされてゆく。
スタッフが退室するのを待って、ようやく何か決心したかのように顔を上げた凛の表情に、まゆみは思わずかぶりを左右に振っていた。
「——飲も」
「まゆみさん・・・?」
「今日はもう1本は開けるわよ」
「でも・・・」
「凛もつきあって。こんな高いワイン、滅多に飲めないんだから」
「ワイン苦手でしょう? いつも飲まないのに」
一気に酔いが覚めたらしい。自分のことを棚に上げて、凛はさりげなくまゆみのそばからグラスを遠ざけようとする。
「昔、飲み過ぎて次の日ひどい目にあっただけ。ここで日本酒ってわけにはいかないでしょ。それに今日は、飲みたい気分なの」
半ば予想していた。凛はきっと、本心を口にすることはない。 けれど、相手が自分ならば、少しなりとも話してくれるのではないか、と淡い期待も持っていた。

『凛は、ああ見えて頑固ですから。きっと相手があなたでも、黙ったままでしょう』

ああ、むかつく。何だってあの男の方が、凛のことを理解できているんだろう?  頼んでおきながら、きっと奴は何となくでも答えがわかっているに違いない。そうでなければ、笑えるはずがない。
まだ出逢ってから5日目なのに。日曜は逢ってないわけだから、実質4日。こんな展開、今時のドラマでもないくらいだ。
しかも——しかも、相手は『あの』須山葉月。日本でも指折りの大企業、東堂グループの総帥。 日本経済、いや世界経済の中枢にいる人物のひとり。

その彼を射止めるだけの魅力は、凛にはもちろんあると思う。 ちょっと天然ボケなところもあるけれど、それも含めて一生懸命なところやよく気がつくところなんか、 そんじゃそこらのお嬢様には絶対に負けない。
だから、喜ぶべきだとわかっている。心から、応援したいとも思う。相手が、『須山葉月』でさえなければ。

立場の違いがあるから、なんて前近代的な意味ではなくて、何となく虫が好かない。
優秀な社長だということは認めざるを得ないし、実際そう思う。自分より年齢が低くても、 人格面にせよ仕事面にせよ『尊敬すべき人間』というのはいる。葉月は、後者の典型だ。
しかし——『前者』つまり人格的に尊敬できない、とも言い切れない。

あの、自信たっぷりなところは妙にむかつく。でもひとを莫迦にしているわけではないので、そのテンションも下がる。
あの、『凛と呼び捨てにする男は家族以外で自分だけ』オーラは、自分の年齢を考えろと言いたくなる。 けれど凛が、それを内心嬉しく思っていることを知ってしまうと、何も言えなくなる。
他にも色々あるが、結局『何となくむかつく』レベルを超えることはないのだ。それはある意味葉月の持つ才能かもしれない。
そんなわけで、最終的には葉月の手助けをすることになってしまった。
直接的にではなく、あくまで間接的に。これも、その手助けのひとつ。 ——本当に『飲みたい気分』だっていうのは、社長にはばれているだろうけれど。

「でも・・・」
明らかに戸惑った表情を見せる凛の前で、なみなみと注がれた赤ワインを一気に飲み干す。 喉の奥が焼けるような感じがした。ワインの知識なんてないけれど、飲みやすいことだけはわかる。 グラスを置くやボトルに手を伸ばそうとすると、凛の指がそれを制した。
「ペース早すぎですよ。まだスープ・・・」
「平気。大仕事の後なんだから、細かいこと気にしない」
きっぱりとした口調に、凛はもう何も言えなくなったようだ。実際、まゆみは二日酔いを経験したことがない。
「・・・明日に障らないようにしてください」
覚束ない手つきでとくとくと注ぐ凛に対し、まゆみはくすりと笑った。
「凛だって大仕事の後よ?」
「いえ。わたしはデータの整理をお手伝いした程度です。ほとんどまゆみさんがファイルを作ってくださったじゃないですか」
「忘れたの? 特定できたのは凛が気がついたから。あのファイルだって、ひな形をつくったのは凛でしょ」
「わたしにできたのは、それくらいです。特定できたのだって・・・・・・」

その先は言わず、糊のきいた白いテーブルクロスの上にゆっくりとボトルを置く。
フルサイズのそれは結構な重量で、置いた後でもボトルの中で朱色の液体が揺れるのを、凛はしばし見つめた。


   ◇◇◇


葉月がブリーフケースにCD-ROMと大量の書類を持って最上階に戻ってきたのは、 コンピュータの電源を落とすようにとの指示が全社をかけめぐってからおよそ2時間後。月曜日の夕刻、終業時刻をいくらか過ぎた頃だった。
「この英数字に、見覚えはありますか?」
どさりと出された書類を前に、まゆみと凛は目を丸くする。葉月は一番上にあった紙の、緑色でマーキングされた部分を指さして、ふたりに尋ねた。
首を左右に振るまゆみの隣で、凛はしばし考えてから慎重に口を開く。

「裏IDだと、思います。何度か見たことがあります」
「裏?」
「はい。ログインの時にプルダウンで所属の課や係を選択するので、データベース上のユーザIDは表には出ていないんです。 でも、裏ではそれぞれに半角英数字のIDが振り分けられていると、情報の人から聞きました。ただ・・・」
「ただ?」
「このIDは、もう使われていないはずです。財務システムが現在の・・・いえ、ひとつ前のバージョンに変わった時に、 IDをすべて変えたと言っていました。人員が増えて、IDが追いつかないからって」
「・・・ああ、旧IDね。そういえば桁数が少ないわ」
やっと得心がいった、というようにまゆみがうなずく。
「使われなくなったのは、3年前?」
「ええと・・・そうですね、それくらいです」
「正確に」
「3年前の春です。間違いありません」
たたみかけるような葉月の問いに、今度はまゆみが答えた。その隣で、凛はくすくすと笑い出した。
「日下部さん?」
「・・・あ、すみません。つい思い出しちゃって。このID、語呂合わせができるからよく覚えていたんです。 今でも忘れてないんだなあって思うとおかしくて・・・」
瞬間、葉月が凛の肩をつかんだ。
「——誰の?」
至近距離で問いかけてくる葉月の低い声に、真剣な表情に圧されるように、凛はある人物の名前を返す。
すぐさま葉月は社長室の奧へと足を向けた。デスクチェアに腰を下ろし、 手にしていたディスクの情報をコンピュータの画面上に出した。凛達が見たこともないような画面。
「社長、これは一体・・・」
「聞かない方がいいですよ。これは私が知っていればいいだけのことです」
冗談とも本気ともつかない返答に、凛はじっと画面をのぞきこむ。
細かな英数字が雑然と並び、それが延々と続く。葉月は何かしらコマンドを打ち込んでいるのか、あまりにも指が速く動くので、目が追いつかない。

「青柳さん、照合お願いします。日下部さんはその書類と」
「はいっ」
葉月が次々と口にしたのは、日にちと金額、振込先の口座名義。それは寸分の狂いもなく、一致した。
「・・・ビンゴってことですか・・・?」
「そういうことです。これが確たる証拠です」
「じゃあ・・・」
「とはいえ、まだこれはほんの一部です。あと2年分の資料をひっくり返して、なおかつデータをまとめなければなりません。 残業を・・・もしかしたら夜通しの作業になるかもしれません。お願いできますか?」
「はい」
きっぱりと言い切ったまゆみ同様、凛はうなずいた。

「じゃ、早速始めよう。順序を逆にすれば早くできるし」
「そうですね」
これからの段取りをまゆみと話していて、凛はちらりと葉月を見た、その時。
視界の端に映る葉月が声に出さずに発した言葉を、凛は偶然にも聞いて・・・『見て』しまった。

それは、忘れかけていた棘の存在を再認識させ——新たな痛みを生んだのだった。


   ◇◇◇


有言実行よろしく、メインディッシュが運ばれてきた時点でテーブル上のワインは2本目となり、その半分以上はすでに、ない。
それまでずっと、最近のテレビ番組のことなどをとりとめもなく話していた凛が、何杯目かを空にしたと同時にぽつりとつぶやいた。 顔は赤くなっており、酔いがかなり回っているのがわかる。
「・・・んで、かな・・・」
「ん?」
まゆみはというと、いくら飲んでも酔うことなく、口調もしっかりしている。

「なんで、あんなこと言うんだろ・・・・・・まゆみさん、何で・・・?」
「『あんなこと』、・・・って?」

さらりとした口調とは裏腹に、まゆみはぐっと身体を乗り出す。
やれやれ。やーっと言う気になったか。
凛はアルコールにさして強い方ではなく、酔うとおしゃべりになる。 普段溜めこんでいることもするりと出てくることが多く、けれど他人の悪口などは決して出てこない。 そんな彼女の酔い方を、まゆみは好ましく思っていた。
しかし、いつもの倍近く飲んでようやく話し始めたこの状況に、まゆみの良心はちくちくと痛み始める。

飲みたかったのは事実。
凛をねぎらいたかったのも、事実。けれど、それよりも。
彼女を酔わせて、その隠された本音を無理矢理に聞き出そうとしているのも————紛れもない、事実。
その役目は、自分がすべきものではない。
彼に任せるべき、なのだ。いくら妹のように思っていても。・・・妹のように思う、からこそ。 なのに、彼はまゆみに託した。


ワイングラスからウォーターグラスに持ち替えたまゆみには気づかず、 凛はナイフとフォークを上手に操りながら、しかし口元には運ぼうとしない。

「・・・うけん、とか、終わったとか・・・・・・んなの、・・・なんで・・・っ」

いつしか、涙声が混じる。彼女が目元をぐい、と拭うことで雫がこぼれ落ちることはなかった。
そのかわりに、まゆみの胸の奥に重たい石が落ちてきた。これは、ありきたりな悩みとは違う。 直感に近いことは認めざるを得ないけれども。
「——し・・・『須山さん』の、こと?」
役職で呼ぶのはそぐわない気がして、言い直しながらゆっくりと問いかける。
驚くほど素直に、凛はうなずいた。否、うなずいたのではなく、わずかに顎を引いただけ。けれどそれで、充分だった。
「・・・そっか。でも、凛が須山さんに直接、聞いた方がいいと思うよ」
「まゆ・・・」
「私、ちょっと席外すね。ワインの残り、飲んじゃダメよ? 凛は限界でしょ」
ややためらった後、はいと答えた凛を残し、まゆみはバッグを手に部屋を出た。 しばらく扉にもたれかかり、大きく息をはいてから足にぐっと力を入れたところへ、人が近づいてくる気配がして顔を上げると——


「——遅い!」
「申し訳ない」

バッグを肩にかけ、両腕を胸の前で組んで見上げるまゆみに、相手は微笑みを崩さない。
「色々と手間取ってしまいました。後任人事まで決めておかないと、面倒ですからね」
「・・・ああ、そっかそういうこと——」
「青柳さん?」
凛が悩んでいる訳。自分にすら言おうとしなかった理由。それがようやくわかり、納得したようにうなずくまゆみ。 その前で、葉月はその首を傾げた。初めて見るその仕草にくすりと笑い、まゆみは再び口を開く。
「今橋課長は、予定通り明日復帰ですよね? 『凛』を返して頂けると考えて、・・・よろしいですよね?」
まっすぐに向かってくる挑戦的な目に、葉月は一瞬で真顔になりやがて、『食えない』としか言い様のない笑みを浮かべた。
「それは——どうでしょうか」
「どうでしょうか、とは?」
「ご期待には添えないかと」
まるで、言葉遊びだ。
相手がどんな風に返してくるかをわかっていて、それに対する自分のセリフを相手はわかっていて、それでもやり取りを続けている。
「どういう意味でしょう? 期間延長ということですか?」
「そうですね」
「今週いっぱい、とか? それとも・・・」
わざと、一呼吸置く。すると、葉月はふっと笑った。

「——どちらも、『Yes』と答えておきましょう」

まゆみは両手を顔の横に上げ降参、とつぶやいて、扉の前から身をずらす。
流れるような仕草で葉月は一歩踏み出し、まゆみのすぐ脇へと位置を変えた。瞬間、彼女は眉をひそめる。
「・・・煙草・・・」
「ああ、やっぱりわかりますか? 例の人が、葉巻派でしてね。煙草の香りというのは、結構嫌なものだったんですね」
初めて知りましたと言って、葉月は笑った。年齢相応の、彼の素がかいま見えるような笑顔。
「明日からは、社長室も禁煙にするべきでは?」
「・・・前向きに検討します」
「あら。また喫煙者に戻られるつもりですか」
「残念ですが、ライターが手元にないので無理ですね」
葉月の言葉に吹き出しながら、まゆみはバッグを肩から下ろした。深々と、一礼する。
「それじゃ、私はこれで。ごちそうさまです、社長」
「最後まで食べていかないんですか? まだデザートが残っているでしょう、それに・・・」
「もうお腹いっぱいです。後はよろしくお願いします」
再び、今度は軽く一礼して、まゆみはレストランの出口に向かって歩き出した。

「——凛?」
背中越しに、扉が開く音、そして彼が彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。


   ◇◆◇


水の冷たさが、喉を通っていく。
行儀が悪いと知りつつ、ごくごくと飲み干してしまう。
ああ、飲み過ぎた。数えられるだけでも、・・・5杯。いつもワインは1杯しか飲まないから、後が怖い、かもしれない。
自分の倍以上飲んでいたまゆみは、大丈夫だろうか。まさかトイレで具合が悪くなったりとか・・・。
「——わたしじゃないし・・・」
自他共に認める、ウワバミ。顔色ひとつ変わらないし、足取りもしっかりしていた。 ほんのり頬に赤みがさすくらいの、きれいな酔い方をする。それは、苦手だというワインを飲んでも、同じだった。
それにくらべて、と凛は頭を抱え込みたい気分だった。
「うー・・・あたま、痛くなってきた、かも・・・・・・」
ウォーターポットから新たに注ぎ足しながら、やっぱり6杯飲んだような気がする、などと考え込んではため息をこぼす。
ワインもお料理も美味しかったし、実際お腹がすいてもいた。2日間、ほとんど食事らしい食事をしていなかったから。 でも——理由は、それだけじゃない。
再び、ミネラルウォーターを流し込む。熱くなりかけた思考を、冷まさなければ。 そうしなければ、まゆみが帰ってきた時、酔いに任せて自分の想いを話してしまいかねない。
「莫迦、みたい・・・」
視線の先に、半分程度中身が残ったままのワイングラス。その濃い赤は、数日前に見た『あの色』へとつながってゆく。
『凛』
わけもわからず、思考が止まった状態で、心臓がやたらとうるさく跳ねた。
交通整理の為に取り付けられている赤い色が、目に焼き付いて離れなかった。 それはまるで、葉月に名を呼ばれた時、葉月の声を聞いている時、自分の身に起こっている状況そのもの。
こんなこと、今まではなかった。何度か恋をしたことはあるし、つきあっている間、その人から名を呼び捨てされていた。 それは、当たり前のことだった。それだけのことで、どきどきしたりすることなんて、なかった。
なのに、葉月は違う。彼に呼ばれると、身動きできなくなる。鼓動すら止まりそうになる。

『お兄さんの他に、君のことを名前で呼ぶ男性は?』
考えれば考えるほど、葉月の声が耳について離れなくなる。 兄と同じように煙草を愛用し、兄と同じように自分の名を呼ぶ——声が。そう、兄と同じ————

そう言えば、兄さんが言っていたっけ。『ワインだけは飲み過ぎるな』って。 飲みに行く、と話した時はいつもそうだった。そして——決まって、こう続けた。髪をくしゃりと撫でながら。

「——凛?」
「・・・ん、わかってるってば」

ふわり、と微笑みながら凛は声の方へと顔を向け、見上げた——『兄』を。


   ◇◇◇


踏み出そうとした足が、止まった。柔らかな笑みは次第に苦笑へと変わり、後ろ手で扉を丁寧に閉める。 そして再び凛に向けられた瞳は、あきらめ。「しょうがない奴だ」とでも言わんばかりに。
それから、・・・何だろう? まだ他にも、何か混じっているような気がする。
ダメだ。酔いが回った頭では、判別できそうもない。
でも、と凛は首を傾げた。何だか、『違う』ような——・・・。
すると、相手は凛のそばにやって来て、椅子の背もたれにその手を置き、耳元近くでささやいた。

「——どれだけ飲んだ?」

「えーと・・・」
もう一度、記憶を辿ろうとして指を折ろうとした凛は、はっと後ろを振り向いた。 表情が固まっている彼女に気づいて、葉月が笑う。まゆみに言わせれば、『にやり』と。
「悪いな、兄さんじゃなくて」
「な、ん・・・」
「何杯飲んだ?」
吐息に混じる、ワインの香り。潤んだ瞳に上気している頬を見れば、1・2杯ではないことは明らか。
まゆみのけろりとした表情を思い出しながら、葉月は再度問いかけると、途端に凛の視線が泳いだ。 意味を悟ってため息をつく葉月に、慌てて口を開く。
「あの・・・っ」
「——青柳さんを甘く見てたな」
「す、すみません。あの・・・」
頼んだのは、凛達が手が出ないような高価なワインだったはず。そのことを思いだし必死に言葉を探す凛から、葉月はすっと目をそらした。
横顔が、ひどく険しい。何度か見た、誰をも寄せつけない厳しい表情。
開きかけた凛の口は、何も言葉を発することなく閉じられる。 声をかけることも、手を伸ばすことも、・・・息をすることすらためらわれてしまう、そんな冷たい空気がこの場を満たす。

葉月は、あきれてしまったのだろう。
いくら一仕事終えたとはいえ、凛は葉月の秘書。 何か事が起こった時にはすぐに葉月のサポートをしなければならないのに、この体たらく。
この上、許容量を超えて飲んだ理由を葉月が知ったら——そう考えただけでも、怖い。絶対に、知られたくはない。 こんな、自己中心的な理由だけは決して。


膝の上に両手を置き、うつむいたままの凛の耳に、水音が聞こえる。 顔を上げると、目の前に8分目ほどまでミネラルウォーターが注がれたグラスがトン、と置かれた。
「デザートを持ち帰れるよう、手配してくる。戻るまでに、これを全部飲んでおくこと。いいな?」
「社・・・」
「『葉月』」
「・・・ごめんなさい」
謝罪に対する反応は、言葉ではなく。
優しく、やさしく髪をなでられる。瞼の奥が、熱くなる。 目をぎゅっとつぶることで何とかやり過ごして、凛はおそるおそる口を開いた。
「——あの、葉月さん」
「なに?」
「まゆみさんに、会いませんでしたか。さっき、お手洗いに行くって・・・」
「彼女は先に帰った」
「ええ? 一緒に帰るって言ってたのに・・・」
顔を上げ、困ったなと間延びした口調でつぶやく凛。ようやく『いつもの』彼女に戻ったと葉月は解釈して、ほっと胸をなで下ろしていた。
「心配要らない。近くまで送る」
「・・・『送る』?」
葉月はうなずいた。すっと背を伸ばし、手を胸の前に置いて深々と一礼する。その仕草は洗練されていて、一部の隙もない。
次いで顔を上げ、凛をじっと見つめた。そらすこともできずに頬を赤らめる彼女を前に、葉月の表情に自嘲めいた笑みが一瞬、混じる。 しかしそのことに、凛は気がつくことはなく。
それは、葉月にとって嬉しくもあり・・・言い様のない負の感情も、ちらつく。けれどそのことはおくびにも出さず、彼は微笑む。
「社長車で、ご自宅までお送りしましょう」



「——だいぶ、飲み過ぎたみたいですね」
「そのようです」
「そんなに心配されるのなら、途中で切り上げられれば良かったんですよ」
「だから、青柳さんに任せたんですが」
滑るように車を走らせながら、仕切りを下ろした状態で羽野が話しかけてくる。
苦い笑みを隠そうとせずに答える葉月に、ハンドルを回しながら羽野は笑った。

凛はシートに背を預けた状態で、ふたりの会話を聞いていた。
広い車内。隣に座る葉月との間に、持ち帰ったデザートが入った箱を置いてもまだ、余裕がある。 運転席と後部座席の間に仕切り板があるわ、小さな冷蔵庫はあるわ、驚くことばかりだった。さすが、社長車。
けれど、驚いて声を上げるだけの余裕は、今の凛にはない。 気持ち悪さこそないけれど、ふわふわとした酔い心地を通り越して、何とも身体が重たい。加えて、頭の奥が鈍い痛みを訴える。

「このまままっすぐで良い、日下部さん?」
「はい。2つ目の角を、右に」
「了解。その後は?」
羽野の問いにゆっくりと答えるだけで、精一杯。二日酔いになったらどうしよう、と今からそれが心配でたまらない。
信号待ちで音も立てずに車は停止する。完全に止まってから、羽野は後部座席を振り向いた。

「社長。頼まれたものですが、これでよろしいでしょうか。ポピュラーなものを選んできましたが」
「有難うございます。——まさか役に立つとは思いませんでしたが」
「ははは。青柳さんが一緒ですからねえ。それに今日は、羽目を外したくもなりますよ」
「確かに」
目を閉じている凛には、何のやり取りかは、わからない。
だがビニールの擦れる音が聞こえ、それが近くなり・・・膝の上に力なく置いた状態の手のひらに、 ビニールの乾いた感触とそれなりの重みがある物体が置かれた時点で、うっすらと目を開けた。
「・・・え・・・」
暗い車内では、何が入っているのかわからない。葉月の方を見ても、教える気がないのか、視線は前方を向いたまま。
しょうがなくて、一生懸命光の方向へかざそうとする凛に、羽野が笑いながら教えてくれた。
「二日酔いの薬です。必要でしょう?」
「あ・・・」
「到着です」
お礼を言おうと身を乗り出そうとすると、羽野の声がかぶる。
見慣れたマンション。2日ぶりに見るそれは、酔いのせいかいつもよりも大きく、高く見えた。


   ◇◆◇


「い、いいですっ!」
「部屋まで歩けますか? どこにもぶつかることなく? 無事に!?」
「無理でしょう」

たたみかけるような葉月の問いと、羽野のあっさりとした否定。
それに対し、更に否定することなんて出来そうもない。実際、足元がふらつくのは本当のこと。 しかも、デザートの箱と自分の鞄を手に持って、『無事に』帰れるかと言われると、首を横に振る以外答えようがない。
だからと言って————

「役得ですね、社長」
「・・・代わりましょうか」
「遠慮しておきます。まだ死にたくありません」
「羽野さんは腰を痛めていましたか?」
「いいえ。ですが別の意味で」
ぽんぽんと交わされる会話を、聞く余裕がない。
ダイエットしておけば良かった、どうして高い階に住んでいるんだろう、などと考えては凛は落ち込む。
色々と言いくるめられ、凛は葉月に横抱きされていた。いわゆる、姫抱っこ。 羽野はその横で凛の荷物を持って、従者よろしくついてくる。恥ずかしいことこの上ない。
落ちないように葉月のジャケットを掴んで、どうぞ誰にも会いませんようにと祈りながら凛は目を閉じた。



遠くで、音がする。
何かにくるみこまれ、とても温かくて心地良い。
でも手だけが、寒い。どうしてなのか、凛にはわからなかった。
考えようとしても、するりと逃げてゆく。それよりも温かさの方が、心地よさの方が勝って、何も考えたくなくなってしまう。
少し引っ張られるような感覚がしばしの間続き、やがてそれも消える。 同時に、手も何かに包まれて、ようやくほっとした気分になる。
何か、聞こえた。
やさしくて、甘くて、泣きたくなる。もう一度聞きたいと思った。もう一回、と。
「もういっかい・・・」
お願いしたら、頬に柔らかなものがそっと押しつけられた。
覚えがある。でも、誰だっただろう——。

眠りの国に足をつけてしまった凛がその答えを知った時、日付はすでに変わっていた。淡い光が、それでも目にまぶしい。
見覚えのある天井、きちんとかぶせられた布団の中。昨日着ていたスーツはしわくちゃで、化粧は落としていなくて顔はザラザラ。 鈍く痛む頭に手を当てて起きあがろうとして、半分以上床に落ちているものに気づいて、持ち上げる。
「これ・・・」
男物の、ジャケット。仕立ての良さは、触らなくてもわかる。そして——誰のものかも、わかる。
引き寄せて、抱きしめて、凛は涙をこぼした。ひとしきり、泣いた。
どうして涙が出るのか、どうして止まらないのか。
その理由は、あえて考えようとは思わなかった。


クリーニング屋にジャケットを預けて出社した凛は迎えたのは、さわやかな笑顔。
「おはようございます、日下部さん」
この場に本来居るべき人物、今橋秘書課長だった。


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