Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/03/02


1st 07. 「正論と建前」 [1]



今橋和之総務部秘書課長。
営業部と経理部にしか籍を置いたことがない凛でも、名前と役職は何度となく耳にしていた。
10年以上前、先代会長がまだ社長として東堂グループの中心にいた頃から、彼は社長の目となり耳となって支えてきた。 影の支配者といった言葉も聞こえていたが、それが真実なのか偽りなのか、蔑みなのか羨みからくるものなのか—— 日常の業務をこなすだけで精一杯だった日下部凛にとっては、深く考える暇などなかったのだが。

だが実際目の前に立つ、先日のようなラフな格好ではなくスーツを着て最上階の住人のひとりとしての今橋を見てみると、 あのあだ名はある意味真実なのだろう、と凛は思った。
人を和ませる笑み。けれど隙のない、ぴんと背筋を伸ばした、それでいて自然な立ち姿。 一歩前に立つべき人をより一層引き立てるような、品が良くかつ自己主張を抑えたスーツ。これぞ、社長秘書。
けれど、『影の支配者』ではない。『支配者の影』という方がより近い・・・ような気がする。 圧倒的な力を感じるのだが、それが高圧的ではないから。
思わず見とれそうになるところをはっと我に返り、凛は深々と頭を下げた。
「おはようございます、課長」
入社以降にたたき込まれた条件反射に、今はただ、感謝したいと思った。 そして、昨夜葉月と話をしていなかったことを、激しく後悔した。

『火曜日まで今橋さんには休暇を取ってもらうことにした。水曜日以降のことは、火曜の夜に決める』

土曜日に、葉月はそう言っていた。改めて考えなくても、今日は水曜日。この場に今橋がいるのは何ら不思議なことではない、至極当然のこと。
だから、葉月は急いでいたのかも知れない。今橋が復帰する前に不正経理の実態を暴き、事後処理まで終えられるようにと。
自分の中である程度事態を把握してから、凛は顔を上げ、今橋を見上げる。
「奥様のご容態はいかがですか」
「お陰様で、昨日一般病棟に移りました。もう心配要りません。 意識もはっきりしていますし、快気祝いの時は一席設けますから、ぜひ日下部さんも来てください」
「安心しました。ご迷惑でなければ、ぜひ」
「ええ。それより・・・あなたはどうですか、日下部さん?」
「は?」
間髪入れずの問いに、凛は目を見開く。 亡き父とまでいかなくとも、それくらい年齢の離れた秘書課長は、凛の反応を見てふっと微笑んだ。

「昨夜、青柳くんと食事をしたのでしょう?」
「え、あ・・・・・・」
「かなり、飲んだそうですね? 薬は飲んできましたか」
「羽野さん、ですよね・・・? まさか・・・」
「惜しい。須山社長です」
しゅん、とうなだれているところへ、追い打ちがかかる。それを聞いて、がっくりと頭垂れる期間限定新米秘書。 声を立てて笑い声がかぶさる。もちろんその声の主は、今橋。
「すみません・・・」
「私に謝ることではないでしょう」
やわらかい言葉の中に、少しの皮肉が混ざっている。けれどそれは、上司としては当然のこと。 凛ははい、と素直に答えてから、顔を上げた。

「——それで? 本当に大丈夫ですか」
「はい。その・・・社長から頂いた薬が、効きました。すっきりしています」
「それは良かった」
安心したように何度も今橋はうなずく。ちょうどその時、凛の携帯が音を立てた。8時を示す合図だ。
「・・・あ、申し訳ありません。アラームです」
「アラーム? こんな時間に?」
「今日は出社が遅れてしまったんですが、8時までに社長室の掃除を終えられるようにできればと思って、 セットしておいたんです」
3日前、日曜日の夜。
凛は翌日に着る服を準備しつつ、色々考えて携帯のアラーム機能を使うことを思いついた。
といっても、実際に役に立ったのは月曜日だけ。 月曜の夜は社長室にまゆみ達を一緒に泊まり込んで作業していたから、アラーム自体をオフにしてしまっていた。
ピピピ、とシンプルな機械音を止めながら、凛は携帯画面をしばし見つめる。

「——でも、もうこの時間に設定する必要も、なくなりました」

アラームを8時に設定する必要は、ない。
この、最上階のフロアにいる必要は、ない。
エレベータの音を気にすることも、コーヒーにつける砂糖やミルクのことを気にする必要も、ましてやお昼ご飯を食べるタイミングを考える必要も。 そして。

『須山葉月』に会う、ことも————



頬にかかる髪を耳の後ろへ流し、もう片方の手で二つ折りの携帯電話をバッグに無造作に突っ込む。 そんな凛の行動に向けられた視線に気づいて、彼女は瞬時に表情を消した。
「課長。いくつかお伝えしておかなければならないことがあります。 書類にまとめておりませんが、ここでお話ししてもよろしいですか?」
「それは構いませんが、今日の予定に関することですか?」
「はい」
先週金曜日、1件アポイントが入った。本日午後、2名の来客。 それに、月曜と火曜の2日間はすべての予定をキャンセルしており、その再調整は済んでいない。 それらのことを、今橋に告げておかなければならない。他にも数件、引き継いでおかなければならない事項もある。
うなずいた凛に、しかし今橋は柔和な笑みを浮かべたまま口を開いた。
「本日の来客は、キャンセルになりました。他に優先すべき用件があるそうでして」
「・・・そうですか」
それならば、と他に思い出したことを報告する。拙い凛の説明にも、今橋はきちんと反応を返してくれた。
「わかりました。有難う」
「いえ。失礼します」
これで、本当に終わりだ。
ほんとう、に。

「——日下部さん」

ぺこりと頭を下げ、きびすを返そうとすると、今橋に呼び止められる。
「どこへ?」
「どこ、って」
足を止め、きょとんとした顔で凛は振り向く。
「経理部に、戻ろうかと思いまして。・・・あ、エレベータ使ったらダメですよね。すみません、階段から」
「それは構いませんが、何故経理部に?」
「は?」
「社長の指示ですか?」
何がそんなに楽しいのか、今橋は今にも笑い出しそうだ。
「・・・あの・・・?」
そこへ控えめな、エレベータの到着音。この音は、社長専用のものだ。

「日下部さん来てる!?」
「来てますよ、羽野さん。良いタイミングです」

そこから飛び出すように出てきたのは、運転手の羽野。それに対し、おっとりと今橋が応じる。
「良かった。多分大丈夫だろうとは思ってたけど・・・うん、顔色も良い。二日酔いは大丈夫そうだな。 今日は長距離だから、心配してた。いくら社長車でも揺れるからね。お、服もバッチリ。社長も黒にするって言ってたし」
一気にまくし立てる羽野に、いちいち今橋はうなずく。凛はあっけに取られつつ、聞こえてきた言葉をひとつひとつ考える。

長距離?
服? 社長「も」?
頭の中に、いくつもクエスチョンマークが飛び交う。何が何やら、さっぱりだ。

「課長、いったい・・・」
「いいからいいから」
疑問を口にしようとすると、羽野ががしっと二の腕をつかむ。そのままずるずると引っ張られてゆく。
「ごめん、時間ないんだ。行こう」
「羽野さん、行くってどこに——」
「日下部さん」
そこへ、今橋の声がかぶる。緊張が混じったそれに羽野は凛の腕を解放し、凛は声の主へと向き直った。

「くれぐれも、先方に失礼のないように。いいですね」
「——はい。承知しました」

やっぱり、良くわからない。けれど、『秘書としての仕事』であることは確かだ。
凛は一礼して羽野の隣へと歩を進め、促されるがままにエレベータに乗り込む。


音もなく扉が閉まり、やがて中の箱は降下していく。
「ようやく、行きましたね」
「はい」
背後からかけられるまゆみの声に、今橋は笑いながら答えた。


   ◇◇◇


「久しぶりですね、君が淹れてくれるお茶は」
「腕が落ちちゃいましたけどね。経理部は基本的にティーバッグですから」
「それもまた楽しいでしょう」
「はい」

まゆみは、凛が出社してくる20分ほど前にここへと来ていた。目的は凛ではなく、今日から復帰する今橋と話がしたかったから。
ひとしきり会話を交わしたところへ、凛が来た。そのことを知った瞬間、まゆみは自分の口元に指を当て、秘書用のデスクに隠れた。 今橋は驚いていたが、何かを感じたらしく、結局そのことを凛に対し話すことはなかった。

「——同じですね、課長も」

きれいな緑色。まろやかさも、格別だ。本来一番茶を秘書が飲むなんてあり得ないのだが、今日は主役がいない。 多少の贅沢は許されるだろう。
「何がですか?」
「彼女に、何もおっしゃらなかった」
「・・・隠れた君が、それを言うのですか」
軽くにらまれても、まゆみは気づかないふりをして緑茶をすする。
「だって、その方が楽しいかと思いまして」
「はは」
「社長が一番、策士ですけれど」
「それは同感です」

半分程度飲み終えて、ふう、とまゆみは高い天井を見上げる。

「あーあ・・・やっぱり、取られちゃうのかなあ・・・・・・」
「さあ、それはわかりませんが・・・心の準備が出来ていませんか?」
「出来るわけありません。だって、たった4日ですよ? 終始向こうのペースっていうのも、納得いきません」
むう、とまゆみは頬をふくらませる。隣の今橋は、苦笑を隠そうともしない。
「あなたはまだいいですよ。その場にいたんですから」
「・・・そう言えば、そうですよね。息子を取られた気分ですか?」
「近いですね。親離れ、という感覚はこういうものを言うのかも知れません。実際に子供は居ませんが」
「私だって、妹はいません。ひとりっ子ですから」
ふふ、とお互い笑い合う。


まるで、妹のような。まるで、息子のような。
実際の家族よりも、長い時間を一緒に過ごしてきた存在。
成長したことに対する、嬉しさと愛しさ。
その結果、離れていくことに対する、寂しさと哀しさ。
相反する、しかし同一のものである、感情。

「取りあえず、今日が無事に終わるように祈るとしましょう」
「——はい」
「心配ですか?」
殊勝な面持ちで相づちを打ったまゆみに、今橋は優しく問いかける。
上司の言葉に、それでもしばし逡巡していたが、意を決したように彼女は顔を上げた。

「今日のことは、私はそれほど心配してはいません。相手が相手ですが、須山社長が行かれるのですから」
「それはまた、君にしては手放しですね」
「個人的に、社長にはもう少し辛い点数をつけたいのですけれど」
「では、日下部さんですか」
「あのとおり物怖じしない性格ですから、大丈夫だと思います。 ただ・・・凛が、かなり気にしているようだったので・・・まさかとは思うのですが」
「『まさか』、何ですか?」
続けてまゆみが口にいた言葉に、さすがの今橋も黙り込んだ。
「・・・社長が、そうおっしゃいましたか」
「直接的には何も。凛から話を聞いた・・・というか聞き出した後に伺ってみましたが、うまくはぐらかされてしまいました」
「あの方は滅多に本心を明かされませんよ。私とも世間話程度にしか話をされません。決して無口というわけではありませんがね」
その後、しばらくして、慎重に彼は口を開いた。

「少なくとも、今すぐ、ということはないと思いますが・・・——」


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