Signal Red / 1st story

- シグナル・レッド -

このシグナルは警告か、それとも。
Updated: 2009/03/16


1st 07. 「正論と建前」 [2]



「そのまま進めてください。私が不在でも問題はないでしょう。3%の範囲内であれば結構です。 結果は今橋へ知らせてください。——よろしく」

常よりも、彼の声には厚みがある。
もう何日も前のような気がするが、金曜日に一度聞いた、葉月の『社長としての』声。 当然と言えばそうなのだが、秘書である今橋課長を呼び捨てにし、口調は丁寧なのだが有無を言わさないだけの力がこもっている。 そこには年に見合わぬ威厳があり、彼が組織のトップなのだということを再認識させられる。
とはいえ、凛にとっては心臓に悪いことこの上ない。会話の内容などわかるはずもないが、声自体に引力があるみたいで、 緊張感が途切れることがないのだ。おかげで、眠くなることもない。 これは果たして、葉月に感謝すべき事なのだろうか・・・。

本社ビルを出てから、もうかれこれ1時間。途中で葉月が乗り込み、一般道から高速道へと走り続ける社長車の中で、 未だ凛は行き先を知らされぬままに後部座席に座っている。
葉月と合流するまでは助手席に座っていたのだが、何故か葉月に手を引かれてしまった。 おまけに、今いる位置は助手席側。どう考えても秘書が座るべき場所ではない。 そして最悪なことに、鞄は助手席に置いたままなので、何もすることがない。

そんな凛の状況を知ってか知らずか、葉月は書類を見つめているか携帯を通して会社の人間と話しているかのどちらか。 会話が終わったらまた書類に戻る、その繰り返し。
視線を向けるのも悪い気がして、凛は仕切り板が下りているのをいいことに前方のガラス越しに見える景色を必死に目で追っていた。
高速道路に入ると、景色の変化がほとんどない。 それでも、何もすることがないのだから、そうするより他に時間のつぶしようもない。

「あの・・・羽野さん」
「んー? 何」
やがて凛は、身を乗り出して運転を続ける羽野の耳元に声をかける。
「次のパーキングエリアで停めてもらえませんか? 2キロ先にあるでしょう?」
「いいよ。トイレ休憩?」
「・・・トイレじゃないです」
笑って手を振ると、羽野は意味深に笑う。
「停めてもいいけど、社長が何ていうかなあ」
「え、どうし」
「日下部さん」
ぱたん、と携帯電話を折りたたむ音が、凛の言葉にかぶる。書類はまだ葉月の手元にあるものの、裏返しにされている。 仕事モードから一時休憩中なのか、こきこきと首を回し、改めて葉月は凛に向き直った。
今日の葉月は、黒に限りなく近いダークグレイのスーツ。羽野が『バッチリ』と言ったのもうなずける。 偶然とはいえ、色合いが地味な葉月の横にいても、これなら凛が変に浮き立つことはないだろう。


凛が考えていることを知ってか知らずか、葉月は淡々と問いかけてきた。
「パーキングエリアで何を?」
「ええと・・・休憩を、と」
「飲み物ならここにもありますが」
「いえ、そういうわけではありません」
「では何を?」
足を組み替え、膝を肘掛け代わりにして視線は凛の方へ向けられる。
余裕ある笑みを浮かべる葉月から見上げられる格好となった凛は、所在なげに瞬きを繰り返す。 これは——逃げられそうもない。別に、大したことじゃないのに。というより、秘書としては当然のことだと思う。 うん、そうだそうに違いない。
自分で自分を勇気づけて、凛はきちんと葉月に向き直った。

「その・・・」
「はい」
「社長がお忙しそう、ですので」
「まあ、暇ではありませんが」
「せ、席を・・・」
「席を?」
何だろう、この圧迫感。葉月の視線はあくまで柔らかいのに、口調も穏やかなのに。 笑ってくれているのに、何だか・・・後ずさりしてしまいたく、なる。
ごくり、と唾を飲み込んでから凛は再び喉を震わせる。
「・・・替わった方がいいかと——」
「羽野さんと?」
「っはは!」

仕切り板を下ろしたまま。しかも、高級車だからエンジン音がほとんど響かない。 必然的に、凛と葉月の会話は羽野に筒抜け状態。
葉月の突っ込みに対し、打てば響くように羽野が吹き出す。凛は慌てて大きな声で否定した。

「何でそうなるんですか! わたしこんな大きな車の運転なんてできませんっ」
「いやあ、そうしてくれるとおじさんは楽でいいけどなー本当に」
「冗談!!」
社長の前ということも忘れ、声を張り上げる凛の隣で葉月がのんびりと口を挟む。
「——では私と替わりますか、羽野さん?」
「いえ。謹んでご辞退申し上げます、社長。お気持ちだけで」
「そうですか。それは残念です」
「・・・あ」
緊張感が戻りかけた車内に、何とも間が抜けた声が雰囲気を壊した。
「パーキングエリア・・・過ぎちゃいました」
「別にいいでしょう、替わる必要もない」
がっくりと肩を落とす凛にそっけなく言い捨て、葉月は視線を動かして羽野の名を呼ぶ。
「あとどれくらいですか」
「1時間少々の予定です。お約束のお時間には、間違いなく到着するかと」
「わかりました」
うなずいて姿勢を戻した葉月の横顔は、厳しさを取り戻していた。そして、緊張した様子も見て取れる。


一体、どこへ向かおうとしているのだろう?
北や東ではないことはわかる。首都高速を抜け、今走っているのは中央道。
何故、自分が同行しているのだろう?
もうひとつ。『誰』に、会いに行くのだろう?

わからないことだらけだ。葉月と合流する前、凛は何とか羽野から聞き出そうとしたのだが、 「今橋さんが話されてないのに、おじさんが話すのもね」と笑うばかり。何かを、隠している。

意を決して、凛は口を開いた。
「社長。ひとつお伺いしてもよろしいですか」
「何ですか」
「どこへ・・・どなたに会いに行かれるのですか。わたし、書類も何もお預かりしておりませんし、せめてお名前だけでも——」
「・・・聞いてないんですか、今橋さんから?」
ばさばさ、と数枚の書類が葉月の足元へと落ちる。凛がうなずくのを確認して、彼は書類を拾うべく手を伸ばしつつ、苦笑をもらした。
「羽野さんも共犯ですね?」
「いや、説明は社長がされた方がいいでしょう。私どもがするよりは、ずっと的確です」
「的確というより、一番『手厳しい』はずですがね。——日下部さん」
「・・・はい」
緊張した面持ちで返事をした秘書に、社長は満面の笑みで続けた。予想もしない反応に、逆に凛は嫌な予感がした。 とても、・・・とても嫌な予感が。


「あなたには、老人の相手をしてほしいんです」
「・・・え?」
「といっても、元気です。とにかく元気で、私としてはできれば年相応に振る舞ってほしいと思うくらいです」
「は・・・?」
「なので、ちょっと手強いですよ。でも貴方なら大丈夫でしょう」
老人? ヘルパーの資格も何もない自分が、何を?
「え、それはどういう——」
「ちなみに、今橋さんも羽野さんでも勝てませんでした。それくらいの強者です」
勝てる人間なんて、社長以外だと奥さんくらいですかね、と羽野が口を挟む。

今橋課長と羽野さんが知っていて、しかも『勝てない』という。
ということは、役員レベル以上。と、いうよりも——

「まさ、か・・・」
「名前だけは、日下部さんもよく知っているはずです」
「それって、『東堂』——」
「古狸にしては、良い名前だろう?」
社長という仮面を一瞬外して、葉月が毒づく。

「とにかく今橋さんを気に入ってるんだが、奥さんのこともあるし、万が一のことを考えると今回は無理だ。 かといって、私ひとりでは羽野さんが何を言われるかわからない。だから建前上、秘書である君に来てもらうことにした。 本音言うと、君ならあのタヌキに勝てそうな気がするし。スムーズに帰ることができると思う」
「・・・どっちも建前に聞こえますが」
「羽野さん、何か?」
「いえ何も」

2人が交わす会話の意味はわからないままだったが、凛は葉月に頭を下げた。
「有難うございます。課長が『失礼のないように』とおっしゃった意味が、やっとわかりました」
「緊張する必要はないですよ。もう現役を引退したタヌキです。・・・と、失礼」
再び、携帯電話が着信を告げる。仕事モードに戻った葉月の邪魔にならないよう、凛は窓の方へとわずかにその身をずらした。

どうしようもなく、胸が痛い。
書類をめくる音が、紙面をすべるペンの音が、耳をついて離れない。 葉月が何かをしゃべっているのに、その声がするりと通り抜けてゆく。

凛は膝の上できゅっとこぶしを握りこんで、車窓を流れる景色に意識を集中させた。
今から会いに行くのは、東堂グループの創始者。凛にとって、写真でしか見たことのない人物。立志伝中の人。雲の上の存在と言ってもいい。
彼の名前は、東堂隆一郎。東堂グループの創始者であり、葉月の祖父の兄にあたる人物。 葉月を東堂グループ総帥の地位にと望み、それを成し遂げた人物。
しかしそれを渋る葉月に対し、彼は総帥の椅子を降りるための条件を提示した。

条件は、ふたつ。
グループ全体の業績を上げること、そして、不正経理の実態を暴くこと。
そのどちらもを成し遂げた葉月が、東堂隆一郎を訪ねる理由。それはきっと——
『私は、あの椅子に座りたくて座っているわけじゃないんです。無理矢理に「座らされた」』

戻る、ため。
座りたくはなかったと口にして憚らなかった『社長』の椅子を捨て、飾りを捨て、ただの『須山葉月』に戻る————その為に。


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