Signal Red / 2nd story

- シグナル・レッド -

隠していた、空白の時間。
Updated: 2009/10/14


2nd 01. 「再会と再開」[3]



左側のトレイにどっさりと積まれた書類を一瞥して、青柳まゆみは机の引き出しを開けた。
中に置いている財布を取り出して、自然に隣へと視線をずらしたが、そこに今、『彼女』はいない。頭ではわかっているのに、慣れというのは怖い。

「休憩ですか?」
立ち上がったところへ、かけられる声。
「うん。あのトレイ、処理済みだから持ってって。あとよろしくね」
「・・・うげ。やっつけたんですか、あの量」
「日下部との合作。褒めて」
「そりゃあもう。――あれ、日下部さんは?」
凛よりも1年後に入社した男性社員の問いに、まゆみは親指を立てて天井へと向ける。
「あー・・・そっか。そうでしたね」
トレイを手に取り、彼は納得したようにうなずいた。まゆみの背中に向かって、お疲れ様です、と付け加えた。


彼女が向かった先は、フロア内にある給湯室ではなく、各階にある休憩スペース。 紙コップ用の自販機が数台と、ソファがいくつか。さらに奥には、ガラスで仕切られた喫煙スペースもある。

「どれにしようかな、と」

先客が数名いる中、自販機のラインナップを眺めつつ小銭を出そうと財布を開けたまゆみの脇から、すっと差し出された紙コップ。 その中身はココア。甘い香りがただよってくる。
疲れたから甘いものがほしいな、と思っていた矢先のこと。 気が利く人は誰だろう、と顔を上げたまゆみは、ため息を盛大につきたい衝動をかろうじて抑えた。
「どうぞ?」
「・・・有難うございます」
笑みを含んだ言葉に、素知らぬ顔で応じてコップを受け取る。 近くのソファに腰を下ろすと、送り主である葉月はその間にコーヒーを買い、座ることはせず近くの壁に背を預けた。 そのまま、ぐるりと空間を見回す。

「――暇なんですか?」
「そうですね、これが飲めるくらいは。・・・うん、結構美味しいですね」
しれっと言い放ち、葉月はにこりと微笑む。周囲の人間は、よもやここに社長がいるなんて露ほども考えていないだろう。 そもそも、ほとんどの社員は社長の顔を知らないのだから。
「午前中は何してたんですか」
「分単位で打合せ。昼休みは新人さん達と会食」
新人、とは新しい役員のことだろう。 だが葉月の軽い口調だけを聞いていると、ここ数日のうちに大学などを卒業し、4月から社会人となる『新人』と同レベルに聞こえてくるから恐ろしい。
「・・・デスクの上の書類は」
「うーん、これくらいが片手?」
言いながら、空いている手が長方形を描く。誇張ではないとすると、相当の量だ。それが5つある、と。
後決裁にしていたものがほとんどだとしても、書類を待ち望んでいる部署はいま現在もやきもきしていることだろう。 もちろん、秘書である今橋課長を筆頭に。
休憩中の社員がその場から全員いなくなったのを横目で確認して、まゆみは少しだけ声のトーンを上げた。

「凛は? 昼からそちらに行っているのでしょう?」
「・・・・・・」
言葉での回答は、ない。見上げると、紙コップをとんとん、と指で叩く葉月の姿。柔和な表情は変わらないが、その仕草にまゆみは思わず吹き出した。
「というと――仕事は山ほどあるのに、愛しい恋人を課長に取られたのが面白くなくて逃げてきた?」
「人聞きの悪い。ささやかな抵抗と言ってください」
「何がささやか、ですか。日曜はともかく、土曜日は一緒だったんでしょう? 大人げないですよ」
「何故?」
ちょうど飲み終えた葉月は、くしゃりとコップをつぶし狙いを定めて放る。きれいな放物線を描いて、それはゴミ箱へと収まった。
「何故って・・・『土曜日はすごく楽しかった』と凛は言ってましたが」
「こっちは胃が痛む思いばかりでした」
「・・・は?」
問い返したまゆみの隣で、葉月は胸の前で両腕を組み眉間に皺を寄せる。


「出たんですよ」
「出た? 何が」
「タヌキ」

ごく最近その言葉を聞いた、とまゆみは思いをめぐらす。 凛の口から一度だけ、とても可笑しそうに笑いながら、彼女は話していた。それは、特定の人物を指す言葉だ、と。
「――あの、まさかと思いますけど・・・」
「『久しぶりに孫に会いたいと思って、何が悪い』・・・だ、そうです。孫じゃないっていうのに」
「・・・察するに、凛が、その・・・『前会長』に泣きつかれたってことですね」
「『出迎えは自分ひとりで』、と説得したようですが」
こめかみに指の腹を押しつけながら、葉月は目を閉じてうなずく。

前会長。それは、この東堂グループの創始者にして葉月の祖父の兄である、東堂隆一郎。 数年前に現役を引退したとはいえ、葉月を後継に指名し、周りの反対を押し切り葉月を社長の椅子に座らせた人物。 かなりの切れ者であるのは間違いないのだが、葉月を溺愛しまくっているといって良いだろう。 そのくせ、その愛情は『まっすぐ』とはとても言い難い。
そしてその対象が、葉月の想い人である凛にまで拡大しつつある――と、いうことだろう。

「食事だけならまだしも、弱いくせに酒を飲んで酔っ払って夜通し介抱させられる、彼女は佐代子さんに取られる、散々です。 昨日は昨日で凛は残務整理の為の出勤、それだけならともかくこっちは2人を家まで送る羽目になったし。 何だかんだと引き留められて戻ってきたのが夜中。――ろくに話もできていません」
「・・・それはそれは」
ちょっとだけだが、これでは同情したくもなる。仮にも恋人になったばかりの2人が久しぶりに再会したのに、周りに邪魔されることになろうとは。


「おまけに」
そこでいったん言葉を区切り、葉月は再度口を開く。
「青柳さんは、凛の家族の・・・お兄さんのことを知っていますか」
「ああ、実さんですね。お名前だけは」
「会いました」
「・・・・・・は?」
「4月から空港勤務だそうです。土曜日は引継ぎ中だったとかで。凛は全然知らなかったようですね」
「再会直後?」
「直前から直後にかけて」
「感動の再会シーンをじっくり見られたんですか」
「残念ながらR指定はついてませんが」
にやり、と食えない笑みを浮かべてまゆみの問いに答えたものの、葉月の表情はすぐに苦いものへ変化する。
それは、『恋人の家族に会ったことが気まずい』といった類のものではなく、もっと他のもの。 それを見て、まゆみは周囲をもう一度確認してから葉月をまっすぐに見上げた。

「――社長」

目を見開く葉月の視線をまともに受けつつ、膝の上で空になったカップを両手で握りこみ、すう、と息をすう。
「『松前』、という名前にお心当たりは」
「・・・ソースは昔のボスですか?」
「あるんですね」
まゆみはゆっくりと立ち上がり、余裕たっぷりに応じる葉月の正面に立つ。
「あるか、と言われれば答えはYesです。それが何か」
「お知り合いなのですか」
たたみかけるように問うと、はたして相手は否定するそぶりを見せない。笑みを崩さず、顔色を変えることなく。
そのことが、まゆみを一瞬でも激しく苛立たせた。


「それが凛に『言わない』理由、――ですか?」


葉月が一時的に日本を離れていた間、まゆみは凛をいつも以上に夕食に誘い、葉月とのことをあれこれと尋ねた。 どこを好きになったのか、どこでそんな展開になったのか、などなど。
頬を赤くして口ごもりがちな彼女から聞き出した内容は、ほぼまゆみの想像通りだったものの、ひとつだけどうしても腑に落ちないことがあった。
人前で当たり前のように抱き寄せたりするくせに、そしてそれをさして恥ずかしがりもしないくせに、おまけに彼女には言わせたがるくせに『何故』――と。

凛はあまり気にしていないようだったが、それはまゆみの須山葉月に対する信頼度をゼロにするか100%にするか、それほどの重大事。
この件に関しては、壱か零。小数点は存在しない。存在しうるはずもない。



葉月の口元が、すっと引き締まる。組んでいた両腕がほどかれ、左手はスーツの下、ズボンのポケットへ。右手は、顎へと。
「答えは・・・――」
そこへ、カツカツ、と近づく足音。
「失礼。やはりこちらでしたか」
「・・・バレましたか」
現れたのは、経理部長の清水。今橋と同期入社で既知の仲であり、現時点での凛とまゆみの上司にあたる。
「今橋が『経理のフロアにいるはずだ』と。急ぎのお電話のようです。お戻りを」
「わかりました。すぐ行くと伝えてください」
「では」
笑いをこらえつつも、清水は一礼して踵を返す。

「――答えはYesでありNoです」

再びふたりだけとなった空間で、コップをゴミ箱に捨てるまゆみの脇を通り過ぎながら、葉月が言った。
「ずいぶん都合の良い答えのように聞こえますが」
「昔のことをいつまでも引きずるほど莫迦ではありませんが、綺麗さっぱり忘れられるほど記憶力が悪いわけでもないんですよ、わたしは」
「・・・申し訳ありません。言い過ぎました」
「いえ」
淡々と話す背中は、どこまでも堂々としている。 葉月はそのままエレベータホールに向かい、まゆみが押すよりも早く、上の階を示すボタンを押した。
「下ではないんですか?」
ほんのひと月前のことを思い出して問うまゆみに、「時間がないですから」と葉月は返す。

待つ間、何となく沈黙が流れた。それを破ったのは、葉月の声。つぶやいているようにも、自らに言い聞かせているようにもまゆみには思えた。
「多分・・・」
「はい」
「逃げ場なんでしょうね」
「・・・『逃げ場』?」
「凛が、オレから逃げだそうと思えば逃げられるように、と」

小さな電子音と共に、エレベータへと続く扉が開く。
無人の箱にひとり乗り込み、振り向きざまに葉月はふっと微笑んだ。しかし、それを受け止めるまゆみは不機嫌この上ない表情。
「嘘ばっかり」
「あお・・・」
数歩進み出て、「閉」のボタンを葉月よりも先に押す。扉が閉まり始める前に、彼女はさっと身を引いた。


「――逃がす気なんて、ないくせに」


その言葉に、葉月は。
扉が完全に閉まるまで、笑って――いた。


   ◇◆◇


先週金曜日の15時が内示、17時に解禁となった4月1日付けの人事異動。そのリストには当然凛の移動も含まれていた。
役員の半数程度が交代、という事態にあって、総務部に属する秘書課の移動はほぼ皆無だった。 ただ、その中に唯一あった「日下部凛」の名に、周囲は色めき立った。

秘書課長である今橋が、社長秘書を兼務していることは周知の事実。 運転手が第二秘書を兼ねているものの、課長としての職務の半分近くは、どうしても課長代理の肩にかかってくる。 職責のバランスが取れていない、というのは誰よりも今橋自身が認めていたことだった。
その状況で、秘書課へ異動する者がいる。しかも、代わりに他の部署へ異動する者は、いない。 つまり――この人事異動が意味するところは、誰でも予想がつく。

解禁後、何人もの社員が凛に「社長秘書になるのか」と尋ねてきた。
「さあ。課長に伺ってみないことには。多分、違うと思いますけど」
まさか3日間ほど社長秘書をやっていました、なんてとても言えない。 それに凛自身、この内示の内容ではそうだとも違うとも、言えなかった。
社長秘書、というポジションは長い間今橋がひとりで勤めてきた場所。 人員の純増だとしても、今橋は課長職に専念し、経験豊かな別の秘書が社長室へ、そして自分はその後任になるだろう。 それが自然だ。
それに――ひとつ上の階に葉月がいる、ということだけでも嬉しい。 電話番号も知ってるし、会おうと思えば会社の外で会える。そしていつか、経験を積んで社長室へ行けたらいいな、と思う。

「私は、社長秘書でもやれると思うけどな。カンが良いし。それに、この天然ボケだと社長も和むんじゃない?」
「・・・確かに・・・」
「そこ! うなずく所じゃないでしょ!」
「や、青柳さんが言うんだから間違いないような気がする」
「ひどっ!」
まゆみの言葉に、全員が納得したようにうなずく。凛が抗議しても、聞く耳を持ってくれない。
結局うやむやのうちに話は終わり、凛はその直後に挨拶に行きたい旨を今橋に電話で連絡し、 ここ最上階フロアへと足を踏み入れたのが、週休明けの月曜午後。

挨拶もそこそこに、誰から引継ぎを受ければいいのか、と遠慮がちに尋ねた凛に、今橋は破顔一笑。
「もちろん、あなたの席はここです。他の席はありませんよ?」
「ですが・・・」
「――詳しい理由が必要ですか?」
「・・・伺っても、よろしければ」
今橋は笑みを浮かべたままにうなずくと、凛に椅子を勧めた。

「課員の人員の能力・性格を参考にした上で、日下部さん、あなたが一番適任と判断しました。 ・・・と言えば聞こえはいいですが、あなた以外にこの席に座れる人は思いつかなかった、という方が正確ですね。 須山社長をうまくコントロールできる人は、そうはいません。 それから・・・実はこれが一番大きな理由ですが、あなたは公私の区別を付けられる人だからです」
「区別、ですか? それでしたら誰でも」
「言うほど簡単ではないんですよ。考えてもみてください。30歳そこそこで社長、加えてあの容姿です。 人当たりも柔らかいし、経営者としての能力や手腕は、誰もが認めています」
「はい」
「そんな社長を前にして平静でいられる人は、どれくらいでしょうか」
引継ぎのメモ用にと持ってきたノートを胸の前で握りしめ、凛はしばし考え込む。 そんな彼女を見て、今橋は再度口を開く。

「・・・社長は、我々が思っている以上に的確に、人柄を見抜いています。 出会ったばかりのあなたを臨時とはいえ秘書に指名したのは、あなたの回転の速さや自分の意見をきちんと言えるところ、 そして人を和ませる力を見て取ったからだそうです。青柳くんからあなたの仕事ぶりを耳にして、実際に目にして、 そして私も後任にするならあなただと決めました。 社長にはその時点でお知らせしておいたんです、『4月以降は、課長職に専念させてほしい』と。 すると社長は、『後任は、あなたと同等の能力を持つ人材を配置してください』と言われました。 ――それ以上は、何もおっしゃらなかった」
「ど、同等ってそんなの無理です。とても・・・」
「謙虚と卑屈は違うんですよ、日下部さん。私を失望させないでください」
優しい、だが厳しいひと言の前に、凛は再び押し黙る。
無理だ、と言ってしまうのは簡単だ。経験がない、というのも真実。だがそれは、逃げでしかない。

「経理部長は、まあ予想はしていましたがかなり渋りました。これから、という時に横から奪うのか、とまで言われましたね。 もっと自信を持つことです。これは決して社長の意向ではなく、あなたが社長と個人的に親しいからでもありません」
「・・・・・・はい」
「納得してもらえましたか?」
顔を赤らめつつもうなずいた彼女を見て、今橋は小一時間ほどざっと業務の説明をした後で、1階下の秘書課フロアに行くように勧めた。


8割方女性の園と化している、秘書課。 ぼろを出しませんように、きちんと挨拶できますように、とどきどきしながらひとまず型どおりの言葉を口にし、丁寧に頭を下げる。
すると。
『待ってたわよー。ここじゃ有名だもの、あなたは』
『え・・・』
『青柳さんから色々聞いてるから、わからないことあったら何でも聞いて』
『多分経理部の人より、日下部さんのことに関しては詳しいんじゃないかなあ』
『い、いろいろ・・・?』
『そう。色々』
皆一様にスーツをびしっと着こなしている女性ばかりなのに、何ともくだけた笑顔と口調と態度。 見下しているわけではなく、純粋に興味津々、といった感じ。
一体、まゆみはこの人達に何を言ったのだろう。 そんなことを頭の隅で考えつつ、熱烈大歓迎状態の秘書課の面々から、凛はなかなか解放してもらえなかった。 ようやく戻ることを許されたのは、30分後。


「お帰りなさい、日下部さん」
「お、お帰り。どうだった?」
非常階段から最上階へと入ってきた凛を、今橋と羽野の笑顔が迎えた。 羽野は昼食の為に来社した新役員を最寄り駅まで送り、つい先ほど帰ってきたらしい。
「ただいま戻りました。時間がかかりまして、申し訳ありません」
「いえ。熱烈な歓迎だったでしょう? 予想よりも早かったくらいですよ」
「・・・あはは。それはもう」
「『あの』青柳さんの後輩、ですからね。未だに彼女には誰も頭が上がらないようで」
「そうそう。彼女たちにしてみれば、まゆみくんは神様みたいな存在らしいから」
「主任のすごさを、思い知りました・・・」
心の底から、凛はうなずく。

「それで、日下部さん。戻ってきた早々で申し訳ないんですが、社長室にお茶をふたつ、持って行ってもらえませんか?  引継ぎの残りはまた明日ということで」
「はい。社外のお客様ですか?」
「社内です。ですから社長に先にお出ししてください」
「かしこまりました」
「慌ててこぼすなよー」
「しません!」

給湯室へと向かう凛の背中を、男性ふたりが見送る。そしてくすりと笑い合った。


   ◇◇◇


「失礼します」
扉の前で2回ノックして、ゆっくりと取っ手をひねる。 一礼し、応接スペースへと迷いなく足を進めたのだが、腰を下ろしている人がいない。打合せスペースにも。 見回す凛の耳に、葉月の声が入ってきた。

「それは君の分です。もうすぐ終わりますから、私の分もそこのテーブルに。話がありますので、座って」
「は、はい」

社長室の中は、広い。少人数の打合せができるスペース、そして応接スペース。それらの向こう側に、社長席がある。
その先には、ビル群とどこまでも続く空。東京臨海部を結ぶ橋も、凛の視力ではわずかだが見える。 今いる場所が、どれほど高層階なのか、それが間接的にわかる。まぎれもなく、ここは東堂グループを束ねる人物がいるべきところ。
1週間後には、このフロアにずっといることになるのだ。高いところが苦手なわけではないけれど、気がつくと足が震えてくる。

パラパラ、と書類をめくる音。何かを書き込む音。凛に視線を動かすことなく、一心に葉月は書類に向かう。 決裁済みの書類はいくつも積み上がり、崩れないのが不思議なほど。
音を立てないように最新の注意を払いながら、トレイを応接用テーブルの上に置き、ゆっくりとソファに腰を下ろすと、 沈みこむでもなく、固くもなく、適度な弾力でソファは凛を受け止めてくれた。

「挨拶は終わりましたか?」
「あ、はい」
「引継ぎは」
「半分ほど終わりました」
「経理部の方の引継ぎは」
「水曜日の午後の予定です」
「そうですか」
会話を交わしながらも、葉月の手は止まらない。 ところどころに付箋紙を貼っては何かを書き込んでいることから、会話に気を取られているようには見えない。 自分には絶対にできない芸当だ、と凛は思う。

「――終わり」
ふいに葉月がそう言って、手にしていたボールペンを机の上に放る。分厚い書類をデスク左側に積み上がった山の上に、ぽんと置く。
「お疲れ様です。持って行きますね」
「後でいい」
立ち上がろうとした凛を制して、葉月はデスクをくるりと回ってソファに座った。 茶器が置かれてはいない場所であり、凛の、すぐ隣に。 両膝の上に肘をつき、身体をすこしかがめて凛を上目遣いに見上げる。
凛にとっては、至近距離で見つめられ、居心地悪いことこの上ない。
「あ、あの・・・社長?」
「はい?」
「その・・・わたしに何の御用でしょうか」
「色々と」
茶托ごと茶器を葉月の前に移動させても、彼は手に取ろうともしない。それどころか、くすくすと笑っている。
ぷい、とそっぽを向いてお茶を飲もうとしたけれど、凛には熱すぎてただ持っていることしかできない。 それ以上動けないでいる彼女に、葉月の笑い声が追い打ちをかける。
「――もう。何なんですか!」
「悪い」
片手を挙げ、葉月は笑うのを止めた。そして、ぽつりとつぶやく。

「これが今橋さんの出した結論か、と思って」

その意外な言葉に、凛はまじまじと葉月を見つめた。
「・・・ご存知じゃなかったんですか?」
そう言えば、と思い至る。葉月が知っていると思いこんでいたから、異動のことは話していなかった。 隆一郎達がいる時は、葉月の祖父の話や葉月が帰国した時の話に終始してしまい、その場でも話題には上らなかった気がする。
「今朝、聞いた」
でも、と葉月は続ける。
「秘書が誰であろうと、仕事に対して手を抜くことは許されないし、そこまで莫迦でもない。 だから今橋さんに人選を任せて、一切口をはさまなかった」
「社長・・・」
「事前に知っていても、君に今橋さんが引継ぎをしているところを見ても、実際君がここに入ってくるまでは半信半疑だった。 ――本音言って、ほっとした」
凛が淹れたお茶を美味しそうに飲み干して、葉月は口許を緩める。茶器を戻し凛に向き直り、指を頬に伸ばして。

「確認させて」
「え、あの、ちょっ・・・」
言うなり、葉月は凛を抱き寄せた。背中に両腕を回し、動けないように力をこめる。
「昼休みの代わり。じーさん連中と会食っつー名の仕事で休みがつぶれたから、せめて5分」
「――そ、そういうの、言い訳って言うんですよ」
「知ってる」
わざと耳許近くで軽口に応じながら、葉月は目を閉じる。

「何か・・・凛が正式にオレの秘書になるっていう実感がわいてきた」
「・・・わたしも、です」

彼女の温もりが、伝わってくる。
この心地よさを、失いたくはない。少なくとも、自分からは。


そのために――――いつまでも逃げてはいられない。
再びこの席に座ると決めたのは、他ならない自分、なのだから。


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