Signal Red 2nd

- シグナル・レッド -

隠していた、空白の時間。
Updated: 2009/11/22


#02 哀しさと愛しさ[1]



「・・・そろそろ、かな」
右にジョッキ、左で指を1本ずつすべて折りながら、彼女はぽつりとつぶやいた。
「何がですかー?」
「何でもない。飲も、凛」
「はーい」

月曜日はふたりだけで定例会という名の食事。火曜日は、年度末も近い為に経理部の全員が残業。 そして、今日水曜日が経理部の送別会。さかのぼって、土曜日は前会長夫妻との食事で、日曜日は会えずじまい。
つまり帰国以降、まだ葉月は凛とゆっくりとした時間が持てないでいる、という計算になる。今日で5日だから、そろそろ限界だろう。
仕事並に手が早そうに見えて、肝心なときに邪魔が入ってしまうって感じだしね、とまゆみは凛をちらりと見ながら口端をゆるめる。

銘々が一杯目のグラスを空けた頃、今回の幹事が立ち上がった。
「じゃーそろそろ、うちの部を追い出される人に挨拶してもらいましょうか」
役職が上の方から順々に新しい部署の名前や短い感謝の言葉などが織り交ぜて語られ、最後は凛の番。 これまでの人達と同様の言葉を並べて一礼すると、待ってましたといわんばかりにあちこちから問いかけられる。
「日下部さん、誰の秘書になるのー? もしかして、社長!?」
「・・・えーと、その・・・・・・そう、です」
「うわ、ホントなんだ!」
「すごい! ねえ、社長ってどんな人? やっぱりおじいさん?」
やっぱり、という言葉には、苦笑いせざるをえない。ほんの少し前まで、凛もそう思っていた。 社長の地位に就く人は、それなりの年輪を重ねた人だろう、と。けれど。
どう答えればいいのだろうか、とアルコールでいくらか回転の鈍った脳で考え込んでいると、すこし離れた位置から部長の清水が口をはさんだ。
「そんなに気になるんなら、入社式を見ればいい」
「え、でも社長って出てこないんじゃ」
「最初はその予定だったんだが、出席されることなったと午後に通知があった。動画配信も例年通りあるそうだ」


「――どういうこと?」
本当ですか、と周囲が色めき立つ中、まゆみがくい、と凛の袖を引く。
「・・・それがわからないんです。昨日、社長御自身が急に出席を決められて・・・今橋課長も首をひねってらっしゃいました」
「凛も知ってると思うけど、ウチの入社式ってグループ各社に動画配信されるし、マスコミも押し寄せるのよ?」
「ええ」
「夕方のニュースじゃトップニュース扱いだってざらだっていうのに」
「・・・それも、ご存知だそうです」

日本で五指の中に入ると言われている東堂グループの入社式ともなると、マスコミ報道は当たり前。 社長の式辞は資料として書類配布。当日の夕刊、翌日の朝刊の記事で引用されることも多い。
それだけの注目を集める渦中の人物の顔を、撮影するなと言うのはまず無理だ。

「マスコミ嫌いのくせに、何考えてるのかしら」
枝豆をつまみながらのまゆみのつぶやきは、凛が抱いている疑問そのもの。
けれどそれを葉月に面と向かって尋ねることは、何故かためらわれた。
尋ねたとしても、葉月は明確な答えを返してはくれないのではないか――そんな予感めいたものがあったから、かもしれない。


   ◇◆◇


さすがに主役のうちのひとりが酔いつぶれたら、格好がつかない。明日も仕事なんだし。
「・・・うー・・・目もほっぺたも真っ赤だ・・・」
頃合いを見計らってノンアルコールに切り替えたものの、タイミングを間違ったのか、化粧室で冷水に浸した手をぺたぺたと頬にあててみても、 一向に赤みが引く気配がない。この体質だけは、多分何年経っても変わらないのだろう。 まゆみのようなきれいな酔い方ができればいいのに、と思ってもしょうがない。
簡単にメイクを直して廊下へ出ると、一足先に隣の男性用の扉を開けて出てきた人物とかち合い、凛は一歩引いてお先にどうぞ、と声をかける。
相手は、身長は葉月よりやや低いくらいだろうか。細い銀縁の眼鏡をかけていて、服装は紺色の厚手のシャツに細身の黒パンツ。 漆黒の髪の色が印象的で、染めたことなど一度もないだろうと思う。 年の頃は少年の域、高校生・・・否、大学生くらいだろうか。何となく異国の血が混じっているようにも見える。
そして、遅ればせながら相手も自分をじっと見ていることに気づき、何か顔についているのだろうかと口を開きかけた矢先。

「失礼。日下部凛さん、――ですね」

一段高い位置から見下ろす形で、相手は眼鏡越しに凛をまっすぐに見て、ごく控えめに微笑んだ。
その瞳の色はレンズを通してでもはっきりとわかる、髪と同じ漆黒。光の加減で濃い紫色にも見え、どこまでも深い。
明らかに年下なのに、大人びた雰囲気というか、年齢不相応にも見える落ち着きは、一体何なのだろう。

「そうですけど、あの・・・?」
「成程」
「は?」
「失礼、こちらの話です」
「え、あの」
「行きましょう」

微笑みをそのままに、いつの間にか腰に手を回され、エスコートされるようにして凛は化粧室から客席の方へと共に歩く。
歩かされているはずなのに、まるで自分の意志で歩いているように思えてくるから不思議だ。

「あの・・・」
「はい」
「どうして、わたしの名前を? 以前どこかでお会いしましたか?」
「いえ」
相手はゆっくりとかぶりを左右に振る。
「ですが、話は聞いています」
「『聞いて』?」
「ええ」
そう言って、彼はふいに足を止めた。凛が戻るべき場所は、まだ先。
そのまま歩こうとした凛を制してその手を取り、すぐ右に下ろされていたロールカーテンを一方の手ですくい上げる。

「――こいつから」

中にいて、凛達を見上げたのは。
凛が、見下ろしたのは。

「葉月、さん・・・!?」


   ◇◇◇


少年は凛の脇を離れ、葉月の向かいに腰を下ろす。凛達がいた掘りごたつ式の部屋とは違い、4人掛けのテーブル席だった。 壁へと身体をずらした葉月が手招くままに、凛は「じゃあ、少しだけ」と言ってその隣に座った。
「・・・結構飲んだな、その顔だと」
「ち、ちょっと」
「ふうん?」
葉月はスーツ姿ではなく、普段着。一度家に帰り、そしてここへ来たということだろう。 会った瞬間こそ驚いた顔を見せたものの、葉月は柔らかい笑みを浮かべて凛を見つめる。

「それにしても、偶然ですね。まさかこんなところで会えるなんて思ってなかったです」
「青柳さんに教えて貰った。・・・やたらと勧めると思ったら・・・」
「はい?」
「いや」
後半部分のつぶやきは凛の耳には入らないまま、葉月は会話を続ける。
「この後は二次会?」
「はい。部長が『カラオケに行くぞー』って」
「清水さんがカラオケ?」
「ええ。本当に上手で・・・」
そこへ割って入ってきた、鼻歌。聞くなり、凛はぷっと吹き出す。
「清水さん?」
「です。お手洗いから戻られるところですね、きっと。・・・じゃあ、わたしも戻ります。お邪魔して、すみませんでした」
「いえ」
黙々と食べ物を口に運びながら葉月と凛の会話を聞いていた少年は、ぺこりと頭を下げた凛に対し口元を緩める。
「これ以上飲むなよ。青柳さんと一緒だから大丈夫だと思うけど」
「はい」
「明日の夜、時間取れる?」
「えっと・・・・・・明日は20時まで仕事、です」
「その後は空けておいて」
「はいっ」

満面の笑顔でうなずいた凛にうなずき返してから、葉月は凛に顔を近づけた。 アルコールのせいで回転が鈍った頭では、顔に指か何かが触れた程度にしか思ってなかったけれど、まだ至近、 といえる距離にいる葉月が自分の口元に指先を滑らせるのを見て、どこに何が触れたのかを悟った。

「は、は、はづっ・・・」
「何、もう少し濃厚な方が良い?」
「の・・・!?」
絶句した凛は、助けを求めるように同じ空間にいるもうひとりの人物へと視線を向けた。 けれど、相手は全く動じていないどころか、凛にとっては無情とも思える言葉を返してきた。
「ご心配なく。鑑賞する趣味はありません」
「こいつもこう言ってることだし。・・・ここは日本だからって遠慮してたけど」
凛のあごにひんやりとした指が伸ばされ、ぴくん、と彼女は首をすくませる。指は頬を上にたどり、耳たぶへ。
「けけ、結構ですっ」
「我慢といえば・・・おまえ、後で行くって言ってなかったっけ」
「え、それって、お手洗い?」
じりじりと壁際に追い詰められながらも、ようやくの助け船らしきものに凛は懸命に頭を働かせる。 途端に、葉月ははあ、とため息をついた。気力がそがれたらしい。
「・・・この裏切り者」
「暴走は禍根を残すからな」
「と、とにかく、早く行ってくださいっ」
「じゃ、お楽しみは明日ってことで」
「知りませんっ!」
真っ赤になった凛に追い立てられ、葉月は笑いながらロールカーテンの向こうへ消えた。


   ◇◇◇


お手洗いに行くと言って部屋を出てから、すでにかなりの時間が経つ。 戻らなきゃと思いつつも、何故かその場を動けない。というよりも、もうしばらくここに居たいと思った。
戻ってくる葉月を待ちたいというわけではなく、知りたくて。――自分の知らない、葉月のことを。

「あのっ」
凛はきちんと座り直し、テーブルの上で両手を組んだ。目の前の少年は箸置きの上に優雅な仕草で箸を置き、はい、と微笑む。
「――もしかして・・・葉月さんの弟さん、ですか?」
「いえ」
「じゃあ、親戚とか」
続けて首を横に振られ、凛は早くも手詰まりとなった。 会話の内容がとてもくだけたものだったから、葉月がまだ日本にいたときの知り合いだろうと当たりをつけていた。 それに、明らかに2人の年は離れているから、友人ではなく弟か親戚関係だろう、と。 しかし、どちらも違うと言われると、他に2人の関係を表す言葉が思いつかない。葉月の友人の弟? それとも――

ずぶずぶと思考の海に沈んでゆく凛は、彼が眼鏡をはずし興味深そうにこちらを見つめ返していることに、しばらく気がつかなかった。
「・・・すみません、ぼーっとして」
「失礼」
ようやく我に返って凛が頭を下げるのとほぼ同時に、細長い指が彼女のすぐ脇に伸ばされ、彼自身のものではないグラスを持ち上げた。 もし元の位置のままだったら倒していたかもしれないほど、それは凛の腕に近い場所にあった。 それに気づいて再び凛が頭を下げると、彼はグラスをテーブル中央に置き、淡々と言葉を発した。

「わたしは葉月の主治医です」

たっぷり3秒間、頭の中で漢字が駆けめぐった。そして、その意味も。
「・・・『しゅじい』って、主に治す医者、の主治医ですか?」
「はい」
迷いなどない肯定。――と、いうことは、つまり。
凛はテーブルの上に置かれたままの手首をがしっと掴み、縁にくっつかんばかりに身を乗り出す。
「葉月さん、どこか悪いんですか?」
真剣な表情の凛を、葉月の主治医と自己紹介した人物は静かに見つめ返した。 そこには、驚きなどの感情は、見られない。ただ見つめられているだけなのに、凛は何故か息苦しさを覚えた。 けれどそれは、葉月に見つめられている時に感じるものとは全く違っていた。

「――どこも」
「は・・・」
「今はどこも悪くはありません。ご心配なく」

波ひとつない水面のように、彼の声は抑揚がなかった。強くも弱くもない。 けれど、誰しも安堵感を覚えずにはいられないような、そんな力がある。 葉月の声はもちろん印象的だけれど、この声も一度聞いたら忘れられないような不思議な声だ、と凛は感じた。
その不思議な声が、それより、と続ける。
「そろそろ戻られた方が良いのでは?」
はっとして時計を見ると、席を立ってから10分以上。さすがに、おかしいと思い始めていることだろう。
「も、戻ります。すみませんでした、手首・・・」
「いえ」
謝りながら、結局ほとんど何もわかっていないのだ、と気づいた。そういえば、名前すら知らない。 葉月達の短いやり取りの中でも、この人の名前は出てこなかった。

「日下部さん、ひとつ教えてください」

無意識のうちにため息をこぼす凛に、柔らかく包み込むような声がかかる。
「葉月が煙草を止めたのはいつですか」
隆一郎も、葉月を『葉月』と呼ぶ。そして、凛も。 けれど彼の呼び方は、葉月との関係が対等なものなのだ、と凛に確信させた。 もしかしたら彼は、葉月と同世代なのかも知れない。
「半月ほど前です」
「あなたが止めさせた?」
「・・・原因のひとつだとは思います。わたし、葉月さんのライターを取り上げてしまったので」
質問の意図が読み取れないものの、凛はきちんと答えた。すると、相手は笑みを深くした。 おざなりのものではなく、ちゃんと感情の入った、笑顔。――そして。

「申し遅れました、エドワード・ダントリーです」

凛に向かって差し出された、右手。既視感の原因は、すぐにわかった。葉月が半月前、同じように名乗ってくれた。 彼が凛の前で自分の名を口にしたのは、その時が初めてだった。それすらも、同じ。

『長くても1週間程度ですが、よろしく。須山葉月です』

もう、半月も前のこと。まるで昨日のようにも思うけれど。
「――日下部です。初めましてダントリーさん」
普段、外国人とわかると身構えてしまうのだが、今日はそれがない。 それだけ、エドワードの発音には訛りがなかった。ずっと日本で暮らしていたのか、それとも海外で日本語を習得したのか。
だが、凛が名前を口にした時、彼はわずかに表情を硬くした。ほんのわずか。
「・・・わたし、お名前間違えましたか?」
「いえ、ダントリーと呼ばれることに慣れていないだけです。失礼しました」
葉月よりも、細い指。けれど華奢とは違う。柔らかく手のひらが包まれ、そして自然と離れていった。
「それじゃ、失礼します」

今度こそ別れの挨拶をして、凛は経理部の面々がいる部屋へと戻った。 アルコールが入っていたからか、それ以上に盛り上がっていたからか、特に問われることもなく。 隣にいたはずのまゆみは、少し離れた席で課長にビールを注いでいた。今だけは、彼女の不在がほんのすこし有り難かった。

エドワードのことを、うまく説明する自信がなかったから。


   ◇◇◇


「凛は? 戻ったのか」
「ああ」
「それにしても、よくわかったな。おまえに写真見せたことあったか?」
「・・・・・・」
「――いい。言うな」
黙ったままのエドワードに、葉月は手を振る。
注文した品が運ばれてきて店員がいなくなると、たわいもない話へと自然と移ってゆく。 アメリカにいる共通の知り合いのことや、大学のこと、他にも色々と。
そうして、ふいに会話が止んだ。
カラカラ、と葉月のグラスの中の氷がわずかに硬質な音を立てる。いつもなら飲み干すはずが、今日はいつまでも残っている。
「エド」
「ん」
「もし――――」
少し離れた場所で拍手がわき起こった。どこかの送別会か何かが、終わりを迎えようとしているのだろう。

「――もし、話さなきゃならなくなったときに話せなかったら、話してくれるか?」

まっすぐな葉月の視線の行き着く先にいる人物は、けれど、ふいと目をそらす。
「主語と目的語」
「入れなくてもわかるだろ」
「わかるわからない、の問題じゃない」
「わからないのか?」
「――・・・」
「そんな訳はないな」
「うるさい」
「頼むな」
一方的に言い置いた葉月はそこで口をつぐみ、グラスを持ち上げて一気に飲んだ。
「おまえがこっちにいて、良かったと思うよ。――おまえも、オレが日本にいて良かったって思っただろう?」
「・・・少しは」
うつむき加減に煮物に箸を伸ばすエドワードの頭に葉月は手を伸ばし、ぽんぽんと軽く叩く。
「――頼むな」
くぐもった声が、勝手だ、と不満をもらす。
葉月はそれを聞き流した。――あえて、聞き流すことにした。



数ブロック離れたところでタクシーを降りた葉月は、月明かりの中をゆっくりと歩く。
人も車もほとんど通らず、またそれぞれの家の敷地が広いこともあって、静かそのもの。
携帯電話を確認すると、今橋からのメール――文面は丁寧だが見えない棘にあふれている――が2通入っており、 返信している間に見慣れた門前に着いた。
音を立てないように扉を開けたのだが、すぐにぱたぱた、と足音が耳に届いた。

「おかえりなさい」
「起きてたのか? 遅くなるって言っていただろ」
「『おかえりなさい』」
「・・・ただいま」
「はい、おかえりなさい」
苦笑する葉月に、にこりと微笑みかけたのは、年の頃、10代半ばの少女。
「遅くなってごめんな」
「早い、の間違いでしょう? 一度着替えに帰ってきたこと、知ってます。それに、仕事の時よりも早いです」
「お見通し、か」
「もちろんです。ひとりですか? ・・・急な仕事?」
「実にタイミング良く会計直前にね。おかげで飲み代もタクシー代も割り勘しそこなった」
「社長さんってお金ないのですか?」

自分よりもかなり低い位置にある、頭。
まだまだ残る硬さが痛々しいが、すこしは『笑う』ことを思い出しつつある、表情。

「おやすみなさい」
「――おやすみ、ユウ」

日本に再び戻ることにした直接の理由はふたつだが、間接的な理由なら複数ある。そのうちのひとつが、目の前にいる彼女。
小さな背中が一瞬凛のそれに見えて、葉月はぐっと拳を握り込んだ。


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