Signal Red 2nd

- シグナル・レッド -

隠していた、空白の時間。
Updated: 2010/06/28


#02 哀しさと愛しさ[2]



新しい年度の始まりは、学生から社会人になって数年を経た身でも、どことなく緊張するものだ。
入社式の時、初めての異動の時、そして2回目となる今回。比較するとすれば、今回は頂点に近いかもしれない。

通常の異動であれば、9時が辞令交付。 だが行き先が行き先だけに、日下部凛への辞令は始業時刻と同時に秘書課長室で行われた。 課長級は部長からの交付だが、それより下は課長からと決まっている。
「では後はよろしく」
これまでの数年間、『気まぐれ開店』の名を恣(ほしいまま)にしていた秘書課長室の住人は、凛にお定まりの語句を告げた後に書類1枚を渡すや否や、 にこにこと笑顔のままに彼女を追い出しにかかった。
「早く行かないと、機嫌が悪くなりますよ?」
「・・・機嫌、ですか? 社長の?」
葉月が機嫌の善し悪しを表に出す? 数日間を思い浮かべ、上司の言葉に素直にうなずけない凛に、今橋はくすりと笑った。

「ええ。機嫌が悪いと、山ほどの決裁が戻ってこなくなります」
「は・・・」
「それと、前会長が社長でいらした頃、社長室から週に1度は逃げてましたよ。現社長も、もしかしたら」

さあ、と凛の頭から血の気が引いた。『山』が文字通りの高さを誇ることは、先週の引継ぎの際に、身を以て知っている。 それだけならともかく、「逃げる」だなんて冗談じゃない!
「こ、困ります! それでは課長、失礼します」
もらったばかりの異動通知書にくしゃりと皺をつけながら、凛は一礼して秘書課フロアを小走りに出て行こうとして、はたと立ち止まる。
「皆さん、今日からよろしくお願いします。日下部です」
ぺこりと頭を下げた新しい仲間に、その場にいた全員が口々によろしく、と返した。

「歓迎会するから、楽しみにしててね!」
「はいっ」
凛の背中が扉の向う側へと消えてから、今橋は課員を見回して短く告げた。
「さあ、始めましょう」


   ◇◆◇


本日4月1日は他の企業同様、東堂グループでも毎年入社式が挙行される。
直前になって急遽出席を決めた社長の須山葉月を会場まで案内することが、秘書である日下部凛にとっての初仕事。 主たる役員がそろい、関東地区の、それもグループ本社である東堂コーポレーション新入社員のみがそろう場だと想像するだけでも、 緊張感がじわじわと増してくるような気がする。といっても、凛は案内するだけで役目は終わり。 一方の葉月は、その後その場に居続けなければならない。
それなのに、当の葉月は平然としたもの。「まもなくお時間です」と言いに来た凛に、「そうですか」と笑みを返す余裕すらある。
彼の背後に見える空は、雲ひとつない快晴。昨日まで居座っていたどんよりとした雲は、一時的にせよどこかへと行っているらしい。

手にしていたボールペンを机上に置き、葉月が立ち上がったところへ、開いたままになっていた扉からノック音と共に羽野が軽く頭を下げつつ顔を見せた。
「社長。人事課から連絡がありまして、5分押しでお願いしますとのことです。報道機関がセッティングに追われていると」
「わかりました」
「後ほどお声をおかけします」
「え、羽野さ・・・」
思わずドアに向かって手を伸ばした凛に、羽野はひらひらと手を振る。そして、音も立てずに閉められてしまった。
手のやり場がなく、かといってそのままにしておくのも変だと思い、何となく「気をつけ」の姿勢となった凛を、 葉月はデスクの端に腰を下ろしておもむろに見上げる。仕草はくだけたものであっても、社長としての表情のまま。

「前回よりも緊張していませんか?」
「そう・・・見えますか」
「とても」
深い笑みは、凛に安心感をくれる。同時に、今この場に葉月とふたりだけなのだと改めて実感させられて、この状況を何とか打開したくて彼女は口を開いた。

「・・・そ、そういえば、わたし入社式の時に遅刻しそうになったんです!」

葉月は足をゆったりと組みかえながら、凛の突発的な話の転換に応じる。
「遅刻? 何故」
「えっと、その・・・新入社員はほぼ全員が寮に入るんです。 研修期間中の2ヶ月間だけですし、寮っていっても会社が借り上げているウィークリーマンションなんですけど。 人数が多いから場所もいくつかあって、わたしはたまたま会社をはさんで自宅と反対方向で」
「上りと下りを間違えた?」
「はい。途中で気がついて間に合いましたが、同期を何人か巻き添えにするところでした。 もう何年も経ってるのに、未だに皆そのことを忘れてくれないんです」
「それは、しょうがないでしょう」
「・・・ですよね、やっぱり」
言葉とは裏腹に、凛は屈託なく笑う。葉月はちらりと時計を見やり、再び口を開いた。

「――社の研修は、どうでした。厳しいものでしたか」
「そうですね・・・課題は山ほど出るし、体力作りとか言って山登りもありましたし、プレゼンのようなこともさせられました。 でも数年経ってから、『あの時の研修が役に立った』なんて皆で言っています。わたしも、そう思うことが何度もありました」
「『楽しかった』と思ったことは」
「もちろんあります。特に実地研修は楽しかったです。本当にこの会社の社員なんだって自覚できますし。 同期と一緒にいる時も、楽しい時間でした。研修中盤になると6月以降の住む場所をそれぞれ探し始めるんですが、 『このままここに住んでもいいよね』なんて言い合ってました。 休日の晴れた時は一緒に洗濯して、曇りの時は部屋に集まってテレビ観たりして。 でも実際は、研修の間だけって契約だから無理なんですけどね。それに狭いし」
「狭い?」
「1LKです。家具付きだから余計に狭く感じて・・・」
「じゃあ一緒ですね」
葉月は凛の話にうなずいて、話を引き取る。
一方凛は、短い言葉の意味がつかめず、真正面から葉月を見下ろした。
「一緒って・・・何がですか」
「部屋の広さが」
「社長の部屋と、ですか!?」
そう、と葉月はうなずく。
「便利ですね。何でも手の届く範囲にあるし。まあ、今はすこし広く・・・日下部さん?」

社長の年収なんて、知る方法はあるけれど、知ってもため息が出るだけだから知ろうとも思わない。 少なくとも、というか当然、1千万は超えるだろう。いや、3本指が立つくらいだろうか。もしかして、片手じゃ足りない?
そんな人が、仮にも東堂グループの頂点に立っている人が、社長就任前ならいざ知らず、現役社長の身分で1LKの部屋に住んでいる、だなんてあり得るのだろうか!?


そこへ、最小限の音と共に再び羽野が扉を開け、葉月へ目配せした。
「――日下部さん」
葉月は片手を挙げて羽野に「了解」の意を伝え、半ばパニック状態に陥っている凛の耳元で、名前を呼びながら立ち上がった。 腕を伸ばして凛の背中へと回し、彼女を促す。
「行きましょう」
「・・・は、はい。社長、式辞はお持ちですか」
一瞬で立ち直った凛はしゃんと背を伸ばして葉月に確認し、一歩前へと足を進めた。葉月の手が、届かない場所へと。
そのままエレベータに乗り込み、目的階のボタンを押した凛の半歩後ろから、葉月は笑みを含んだ声をかけた。

「そんなに意外でしたか」
「・・・はい。広いお部屋に住んでいらっしゃるとばかり・・・」
振り向きこそしなかったものの、凛はこくりとうなずいてみせた。笑いたいのを必死に抑えている様が、斜めの角度からでも容易にわかる。
「何度か、そういう部屋に住めと言われました」
「前会長ですか?」
「そう」
「それはそれで大変そうですね」
くすくすと凛が笑っている間に、電子音が響いて箱が停止する。

エレベータホールまで出迎えに来ていた総務部長に従い、凛は葉月に1歩遅れて本社ビル内にある一番大きな部屋へと向かう。
「先に参ります。――そのまま扉までご案内を」
「はい」
部屋の前には、数人の社員達。凛に指示を言い置いてやや小走りに駆けよる人事課長を目で追いながら、葉月は歩みを若干緩め、凛と並ぶ。

「・・・どうかなさいましたか? お忘れ物でも」
困惑した表情で見上げてくる秘書であり恋人の横で、葉月は音を立ててネクタイを締め直す。
「曲がっていませんか」
言われた凛は無言で葉月の襟元を見つめ、「失礼します」とその手を伸ばした。手慣れた様子で位置を調整し、 はい、と小さくつぶやいて、わずかに頬を赤らめつつ葉月を見上げる。
この色、この柄。見間違えるはずがない。これは先週、葉月と一緒に店へ行って時間をかけて選び、凛が買い求めたネクタイだから。
「よく、お似合いです」
「ありがとう。これは先週もらったばかりなんですよ、私の大切な人から」
「・・・・・・」
「これから毎日、チェックしてもらえませんか? 自分ひとりではあまりうまく結べないので。 それと、あまり本数も持っていないので、時々探すのを手伝ってもらえると有難いです」
「・・・・・・はい」
「どうかしましたか、日下部さん? 頬が赤いようですが」
「――メイクのせいです。どうぞお気になさらず」
「そうですか」
「そうです」
くすり、と葉月は笑って再び歩き出す。
「もうひとつ、お願いしたいことがあります」
「はい?」
「・・・探しを手伝ってください」
「――は?」
最初の言葉が聞き取れず、思わず凛は聞き返した。

一歩、二歩。その間に、葉月は凛をコンパスの長さ故に追い越してゆく。 その瞬間、ぎりぎり他の人間達が聞こえないくらいの声の大きさで、葉月は凛の耳よりも高い位置から短く告げた。 そしてそれは、はっきりと彼女の言語中枢へと届いた。一言一句、間違いなく。

「ふたりで住む部屋」

絶句した凛を横目に、葉月は歩みをさらに早めて会場へと入って行く。



その時点で、彼は完全に『社長』としての表情しか見せることはない。仕草も、声も口調も、何もかも。
居並ぶ報道陣達の脇をすり抜け、新入社員の羨望のまなざしとを一身に浴び、親子ほども年の離れた役員達の会釈を受けつつ、 彼はただひとつ、彼以外の人間が座ることを許されない席に着席する。

その威圧感。そして、存在感は、かつて凛が数日間の間に葉月と向かい合い、幾度か感じたことがあるものとは、明らかに違っていた。
それは例えるならば、強烈すぎる光に似ている。雲間からこぼれる柔らかな光ではなく、厚い雲をも突き通すほどの強い光。 今、人工の光の中にあってもなお、その強さを失わない。

不快感を与えることはないけれど、たとえ入社式だからといって、何故彼がこんなにも厳しさを身にまとうのか、凛にはわからない。 けれどひとつだけわかっていることは、葉月が変わったのは1週間と少し前――つまり、アメリカに一度戻り、その後再度日本に帰国してから。

アメリカで何かがあったのか。
それとも――帰国直後に何かがあったのか。

『そのうち、ちゃんと話すから』

あの時の葉月の口調は、重くはなかった。けれど軽くもなかった。何より、彼は目をそらさなかった。
何を、話してくれるのだろう。何故、今は話せないのだろう。いつなら、話してくれるのだろう?
背中は、もう見えない。距離は、はるか遠くに離れてしまった。
「有難う。後は任せて」
「はい。よろしくお願いします」
人事課のスタッフに頭を軽く下げていると、ふと視線を感じた。より会場に近い位置に今橋がいて、凛に向かって手招きをする。
「式典の時の社員の動きを、ちゃんと見ておきなさい。あなたは総務系の経験がないでしょう。営業のプレゼンとは、若干違います」
「――はい」
総務部長が、式の始まりを告げた。
緊張感。かすかなざわめき。数年前の自分が、自分たちが、すぐ近くにいる。
式の進行に合わせて、イヤホンマイクを付けたスタッフが走り回るのを間近で見ながら、凛はスーツのポケットに手を入れ、仕舞っているライターに触れた。


今は仕事中。集中しなければ。
金属特有の冷たさは、凛の手のひらの熱を吸い取ってもなお、そのままだった。


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