Signal Red 2nd

- シグナル・レッド -

隠していた、空白の時間。
Updated: 2010/07/28


#02 哀しさと愛しさ[4]



コンビニ弁当にマグカップ、そして電話の子機。凛はそれらをトレイに載せて社長室へと再び入ってきた。
「今日だけ、ですから」
視線を外さずに葉月に念押ししたものの、凛の表情は怒りなど微塵もない。
「はいはい。・・・ここ、座って」
葉月から言われるがままに隣に座り、がさごそとビニール袋の中から弁当を取り出す。 そのままどちらからともなく、弁当の中身の話や葉月が未だ行ったことがない社員食堂のメニューのことなど、たわいもない話が続いた。
その矛先が変化したのは、葉月が箸を置き、凛ももう少しで食べ終える、という時。

「凛は、この会社に入る前は何をしていた?」
「何、って・・・大学に通ってました」
「その前は」
「えっと、浪人しなかったので高校に」
「じゃあその時は22か」
「はい」
箸の先に卵焼きがある状態で、凛は律儀に答える。一体それがどんな話へとつながるのか、わからないままに。
「多分正社員のほとんどが、凛と似たり寄ったりだろうな。 高校か高専、大学か短大か専門学校か、それくらいの違いがあるだけで8割以上は新卒だし。ヘッドハンティングされた少数派もいるけど・・・ ああ、そういえば紹介予定派遣での正規雇用も若干いたか」
目を閉じ両手を首の後ろで組んで、葉月はうなずきながらつぶやく。
凛は卵焼きをぱくりと口に運び胃に収めてから、無言で手を合わせ、改めて葉月に向き直った。いつからか、葉月は視線を天井へと向けていた。

「オレは、23で就職した」
「23・・・?」
「浪人か留年したって思っただろ」
「いえ、そうじゃなくて・・・もしかして『飛び級』ですか」
「ん」
大学によっては、3年次時点での成績優秀者は、4年次を経ずに大学院博士前期課程(修士課程)へとスキップできる制度がある。 それが飛び級。大学は3年次での中途退学扱いとなる為リスクはあるが、その分就職の面では有利になる。
「すごいですね」
「惚れ直した?」
「・・・っ」
100%からかわれているとわかっていても、「違います」とも言い切れない凛は、ごほんと空咳をして弁当を片づけ始めた。 そんな彼女を見て口許を緩めながら、葉月は再び口を開く。
「当時は結構珍しがられて、新人だっていうのに色んな所に引っ張り回された。――『彼女』と会ったのも、その時」
凛の表情と行動が一瞬で固まったのを見て取り、葉月は組んでいた手をほどき、ゆっくりと右手を恋人の頬へ伸ばした。

「彼女の名前は、葛原志織。オレが就職した会社の役員の娘だって聞かされた。 その頃はまだ彼女は大学生で、後学のためとか言って父親にくっついて会社に出入りしてた」


くずはらしおり、と凛は声には出さずにつぶやく。それが、空港で会ったあの女性の名前。凛が知らない、昔の葉月を知っている人。
葉月が23歳の時から今まで、7年間。その間に、何回くらい会ったのだろう。どれくらいの時を、彼女と一緒に過ごしたのだろう。
この手が彼女にも触れたことがあるのだと想像しただけで、胸が苦しくなる。


凛自身も、男性とつきあった経験はある。それを葉月は知っているし、だからといって責められたことなんてない。けれど。
けれど、過去は現在につながる。積み重ねた時の重さは、年月によって色褪せる場合も一瞬で消えることもあれば、永遠不変にもなりうる。
話の続きを聞くのが、怖かった。動揺するとわかっているから。

知らず知らずのうちに目をぎゅっとつぶってしまう。まるで審判を待つ被告のように。
そんな彼女のまぶたに、葉月は指をすべらせた。ゆっくり、輪郭をなぞってゆく。ほんのり感じる温かさが、心地良い。
「彼女とこれまで会ったのは確か3回。空港で会ったのが、4年ぶりの4回目かな」
思考を見透かされたかのような言葉に驚いて、凛はぱちぱちと瞬きを繰り返す。至近距離に、葉月の笑顔がある。
「そ。ただ単に、当時の上司の家族。それ以上でもそれ以下でもない。もちろん今も」
「・・・と、に・・・?」
声がかすれて、うまく出てこない。
「誓う」
葉月は凛の頬から右手を離し、人差し指と中指を顔の真横でクロスさせた。
彼がクリスチャンなのかどうかは知らないけれど、凛は彼の表情と声に嘘偽りがあるとは到底思えなかった。

「でも、・・・それならどうして」
何故、彼女は空港に現れたのだろう。
何故、葉月は彼女の誘いを拒絶したのだろう。
知り合い以上の関係ではないのなら。知らぬ仲ではないのなら・・・何故。
信じられないからではなく、責めているわけでもない。ただ、凛にはわからなかった。あのぴりぴりとした空気は、一体何だったのだろう、と。


葉月はふっと微笑んで、手のひら全体で凛の両まぶたを覆った。
促されるままに凛は目を閉じ、程なく至近距離から近づく葉月の温もりを待つ。
それは今までのキスよりも長くて深くて、頭の芯まで痺れてくる。その場に縫い止められたように、動けない。
そのまま抱き寄せられ、凛は葉月の肩口に顔をうずめた。

「4年前と今と、何が違うと思う?」

4年前。葉月が就職して3年後。ということは、葉月は4年前に仕事を辞め、アメリカへと渡ったのだろうか? そしてそれは、何故。
葉月の周りは、『何故』ばかりなような気がする。それなのに――離れられない。この、声の持ち主から。

「・・・葉月さんが・・・」
「うん」
ぼんやりと霞む頭の奥に浮かんだ、ひとつの憶測。凛はそれを、言葉にしようと口を開く。葉月も急かそうとはしない。
「東堂のトップだから・・・?」
ふいに、葉月の力が強くなった。それが――答え。

『あなた方が用があるのは私個人ではなく、私の社会的立場に対して、ですからね』

空港で、確かに葉月は彼女に――『葛原志織』に対して、言っていた。
凛の中で、何かがつながった、ような気がした。


   ◇◇◇


「納得した?」
ふいに、葉月が切り出した。同時に緩められた抱擁に、凛はゆっくりと顔を上げる。しばし考えをめぐらせた上で、きっぱりと言った。
「葛原さんのことに関しては、一応納得しました」
「・・・『一応』?」
「現時点では」
うなずいて、にこりと微笑む。しかし、凛はそれ以上聞き出そうとはしない。かといって、不信感を募らせている風にも見えない。 何しろ、彼女は考えていることをすぐ顔に出すから。
葉月は内心脱力しそうになりながらも、凛の二の腕は掴んだまま話を進める。
「じゃ、『撤回の余地あり』と考えて良い?」
「・・・ありません」
返答に時間がかかったのは、迷うそぶりを見せたからではない。
何を今更。何故そんなことを? ――そんな言葉が、彼女の表情にありありと浮かぶ。

「ないって、――何で」
「何でって・・・葛原さんのことと関係ないじゃないですか」
じゃあ、何と関係があると言うのだろうか。
それこそが唯一の障害と思いこんでいた葉月は、わけがわからず黙り込む。
しばらく葉月の横顔をのぞきこんでいた凛は、うつむいて遠慮がちに口を開いた。

「・・・嫌、じゃないんです。葉月さんと一緒にいたいと思うし、すごく嬉しいです」

だけど、と彼女は続ける。
「引っ越すとなったら、まずお金がいるでしょう?」
「は?」
目を丸くする葉月の視線の先で、凛は指を折る。ひとつひとつ。
「わたし、先週スーツ買っちゃったし、洗濯機もふた月前に買い換えたばかりだし」
「別にそれくらいは」
「まあ、何とかなるとは思います。最悪、葉月さんに借りて後で返せばいいし」
「・・・他には?」
あっけらかんと自己完結してしまう凛にいくらかほっとして、葉月は先を促す。 すると、凛は口許をきゅっと引き締めた。うつむいた状態でも、彼女が真顔になったのが容易くわかる。

「ものすごく、急いでいるって気がするんです。何かに追われるようにっていうか。 でも、どうして葉月さんがそんなに急いでいるのか、それがわからなくて。だから・・・」
「信用できない?」
優しく柔らかな声に、凛は即座にかぶりを振る。
大きな手が、凛の髪をゆっくりと撫でる。
「『一緒にいたい』って言っても、・・・変わらないか」
間を置いて、再び彼女は同じ仕草を繰り返した。 それが、葉月の言葉を肯定するものなのか否定するものなのか、はっきりとしない。 それでも、安易に決めてはいけないような気がした。

葉月にどうやったら伝わるのだろう。この、漠然とした不安が。
一緒にいようと言ってくれればくれるほど、彼が遠くへ行ってしまいそうな気がすることを。
好きなのに、一緒にいたいのに。
答えを返してくれないことが、何も話してくれないことこそが哀しくて、もどかしいのだと。
『葛原志織』のことは、あんなにもあっさりと話してくれたのに、彼はまだ、何も話してはくれていない。そんな気がする。

「――凛」
ぐるぐると悩む凛の頭ひとつ上で、ふう、と葉月はため息をついた。
凛の顎に指をすべらせ、上向かせる。
「とにかく、週末は空けて・・・」
そこへ、電話の着信音。短く断続的な音は、内線。凛が持ってきた子機から発せられていた。
「すみません」
凛は小さく言い置いて、すっと葉月のそばを離れた。
「はい、社長秘書室日下部です。・・・まゆみさん? はい、ちょっと待って下さい。・・・社長、失礼します」
保留のボタンを押し、手早くテーブルの上を片付けて、凛は席を立った。


   ◇◇◇


扉の向こうへ凛が出て行くや否や、葉月はどさりとソファに背中を預けた。そして、くつくつと笑う。
凛には、葉月が立てた計算や論理はあてはまらない。彼女と接していると、それを嫌でも思い知らされる。
けれど、それは決して葉月にとっては不快ではない。どんな反応を見せるのか、楽しみですら、ある。
だからこそ。

『ものすごく、急いでいるって気がするんです。何かに追われるようにっていうか。 でも、どうして葉月さんがそんなに急いでいるのか、それがわからなくて。だから・・・』

彼女に話すことを、『だから』――ためらってしまう。迷ってしまう。
話さなければならないのだと、自分で自分を何度も納得させているのに。

この思いは、この感情は、特別なものだ。
ユウに対してのものとは、違う。 彼女は葉月にとって庇護すべき対象であり、絶対に哀しませたくないと思っていても、それでも、凛に対するものとは違う。
ユウは、葉月の何を知っても、受け入れるだろう。仮に受け入れないとしても、彼女とのつながりは切れることはない。だが凛は――――わからない。

自分は恐れているのだ。凛の反応を。
哀れむのか、非難するのか、軽蔑するのか、それとも、葉月との関わりを断とうとするのか。
それを恐れるが故に、万が一の時は、エドワードにその役目を負わせるように仕向けた。 彼女の耳に、そして目に『間違いのない』情報を伝えて欲しかったから、と言えば聞こえは良いが、『逃げ』でしかない。


凛を大切だと、思うからこそ。
いとおしい、と――思うからこそ。


葉月を社長の椅子へと引き寄せた、複数の役員による不正経理。 それを結果として『助けた』のが、財務システムの特殊なプログラム。
アルファベットと数字、そして記号を目にした時、葉月は自身の心臓が止まるのではないかと思った。
あのコードは、4年前に記憶から完全に消去した、はずだった。形は残っていても、捨てられなくても、せめて記憶からは、と。
会社を辞め、日本を飛び出し、日本での交友関係を断ち切った。 本来進みたかった道に足を踏み入れ、忙しくも充実した日々に、心の底から満足していた。 博士論文が通り、さあこれから、という時に。
いっそのこと、捨ててしまえば良かった。そう思えたら、どんなに楽だっただろう。 だがそうしていれば、今回の騒動をうまく収められなかった。なんて皮肉。

葉月は右の拳をソファに叩きつけ、ゆっくりと身を起こした。
何度も決心したはずなのにまだ、話すタイミングがつかめずにいる。
多分、今橋やまゆみ達になら、言えるのだろう。
まず凛に話してから、と考えているが――それでも、凛に告げるよりはずっと気持ちは楽に違いない。
難しい話ではない。
時間を割く必要がある話でもない。
ためらえばためらうほどに、彼女は不安に思い続けるのだと、哀しむとわかっているのに。

程なく、葉月の机上にある電話も内線着信を告げた。
嫌な予感を覚えつつ、葉月は受話器を取った。


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